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色んな文章の倉庫です。

アルビノと夏

 夏は僕の温度だった。

 

『愁は悪くないだろ』

 

 太陽が少し傾いた、昼には遅く、夕方には早い時間帯。カンカンと照る陽射しにうつむいている僕に、夏は強くそう言った。

 首を持ち上げれば、怒ったように揺れる黒いランドセルが目に入る、黄色い帽子の下、小麦色の項にじわりと汗が滲んでいた。黒い革に反射する光にくらめくように、僕はまたそっと目を逸らす。

 

『仕方がないよ』 

 

 たった三年で随分傷ついてしまった、白く禿げたランドセルの取手を握りしめる。その小さく、真白な手に息を吐く。若干九歳。世の中の摂理と自分の立場をある程度飲み込むには、十分すぎる時間だった。

 

 仕方のないことだと、ずっと思っている。不自然なクリーム色の髪も、気味の悪いほど白い肌も、色素が薄すぎるだけ、まともに働きもしない鼠色の瞳も、それによって引き起こされるあらゆる現象も。僕の見た目が僕のせいでないように、僕に向けられる感情だって、きっと人のせいじゃない。

 

『仕方ないわけないだろ!』

 

 ふと、轟いた夏の声に僕の肩は跳ねた。慌てて顔を上げると、小麦色の肌に爛々と真っ黒な瞳を煌めかせながら、夏は僕の両肩に手をかけた。

 

 その頃の僕はまだ成っていなくて。

 黒い太陽に照らされることが辛かった。醜い劣等感と嫉妬をどう扱っていいか分からなかった。僕には諦めるしか術がなかった。そこに温かみすら感じられない程、僕は小さく独り、冷たいままでいた。

 

 いけない、と、目を逸らした先にある自分の白い腕、そこに浮かぶ青あざを見て、そのおぞましい色は簡単に爆ぜた。

 

『夏に何が分かるんだよ!』

 

 蝉が鳴く。入道雲が僕らを見ていた。

 ハッと気が付いた時にはもう、言葉も、時も、戻ってきてはくれなかった。頬を汗が伝う。静かな心臓が、それでも煩かった。

 

『……分かるまで』

 

 夏は小さく呟いた。そのまま僕の腕、青い痣に小麦色の手を添える。じわりと、掌の熱が沁みていく。

 

『分かるまで、教えてくれよ』

 

 夏の言葉が透明な青空に消えていく。どこかでリンと、風鈴が無様に音を立てた。

 

♢♢♢

 

「愁」

 

 声を掛けられ、前を見る。教科書を仕舞おうとした手を止めて、口を開いた。

 

「どうしたの?」

 

「わり、ちょっとノート見せてくんね? 今日俺当たるんだよ……。ジュースおごるからさあ」

 

 頼む! と手を合わせて懇願するクラスメイトを微笑ましく眺めながら、机の中を漁りノートを渡す。

 

「授業始まる前に返してな?」

 

「まーじで助かった! 本当、ありがとう!」

 

 クラスメイトは大げさに礼を言った後、ひらひらとノートを振りつつ自分の席に駆け出していこうとした。その時。

 

「うわっぷ」

 

 誰かとぶつかったらしく、クラスメイトの身体が軽くこちらに跳ね返ってくる。慌てて顔を上げて、目を見開く。

 

「わり、ぃ……」

 

 背が高く、ガタイの良い身体つき。短く切りそろえられた黒髪に、あの頃より幾分か白くなった肌。

 彼は長い睫毛を持つ瞳でうっそりとクラスメイトを見て、窓際の自分の席に戻っていった。

 

「ビビった……、あいつ、怖ぇな、相変わらず」

 

 クラスメイトは焦った顔のまま、声を潜めて僕にそう言った。僕はクラスメイトには答えず、ひっそりと彼を目で追う。

 窓から差し込むキラキラとした陽ざし。少し肌寒いほど効いている冷房の中、彼はこちらに背を向け、じっとその輝かしい陽ざしを見つめていた。

 

 夏。僕の温度。

 

「愁?」

 

 クラスメイトの呼びかけに、のんびりと僕は笑顔を向ける。黙った僕を不思議に思ったのだろう、訝し気な顔。

 

「ううん。……授業、始まるよ。写してきな」

 

 この人は、一体夏の何を怖がっているのだろう。

 

 時間が経つと変わるものは変わると大人はそう言う。僕はどこか話半分に彼らの言葉を聞いていたが、この世に生を受けて十六年、驚くほどしっくりとこの言葉を実感しつつあった。端的に言うと、僕が僕じゃなくなって、夏が夏じゃなくなった。

 

 授業が始まる。僕は教科書のページをめくる。目を滑らせるようにして、もう一度右側、三列離れたところに座る夏を見る。夏は黒く長い睫毛を伏せ、閑散とした机の上に目を向けていた。その顔は白く照らされている。

教科書や落書きだらけのノート、筆記用具の散らばる他の生徒とは違って、夏の机にあるのは電子タブレットだけだった。

 

 静かに教師の声が響く教室で、思わず胸を掻きむしりたくなる。代わりに白く白く生気のない自分の腕に爪を立てた。力を込めた皮膚が、また一層白くなる。冷房の人工的な風が肌を撫でた。

 

 小学生の頃。

 夏はどこに居ても真ん中だった。夏の周りには人が絶えなかった。男の子にも女の子にも好かれて、夏はいつでも笑っていた。その笑顔が取り繕ったものではないと分かっていたのだろう、だから夏は愛されていた。それが僕の当たり前だった。

 

 そして夏は、偶然、生まれた家が近かった僕にも、その光を向けてくれた。

 

その頃の僕は汚かった。何もよく分かっていないまま、諦観に隠して果てしなく周囲を妬み、自分を嫌っていた。幼さでは言い訳にならないくらい愚かだったように思う。

 

肌の色と目の色と髪の色が人とは違うから、日系の顔に不釣り合いの不格好な色だから、何も言えない性格だから。

理由は色々あるだろうが、ともあれ僕の周りに人は居なかった。いや、僕を嘲る人、という意味では僕も人に囲まれていた。暖かい太陽とは違って冷たいものは誰も好きじゃない。排除したくなるくらいには。これも僕の当たり前だった。

 

ぽき、とチョークの折れる音がした。ゆっくりと視線を前に戻せば、中年の女教師が床に落ちた白いチョークを拾っているところだった。

 

色のない、温度のない僕に、夏はいつでも優しかった。

当たり前をそうとは思わず、僕の周りにいる人に怒った。冷たい僕をまるで人のように扱った。

 

多分、僕は嬉しかった。その反面、戸惑っていた。

分からなかった。なぜ夏がその光を僕に向けるのか。わざわざ冷たい水面に温度を分けるのか。

今なら分かる。誰でも、どこでも分け隔てなく照らし、恵みを与え、育て上げる。夏は、太陽とはそういうものなのだ。

もう一度言うが、あの頃の僕は愚かだった。どうしようもなく大馬鹿者だった。

 

 だから僕は、禁忌を犯した。犯してしまった。

 

 喉が渇く。嫌な汗が背中に滲んで、思わず身震いをした。

夏空に響く、汚い僕の声を覚えている。悔し気に歪んだ夏の顔をよく覚えている。

 しかし、それでも太陽は僕を照らした。僕の罪を、夏はすぐに受け入れた。責めることすらしなかった。多分、それが太陽の宿命だった。

 

 それから僕はなるべく夏との接触を少なくした。

 恥ずかしかった。自分の浅ましさに打ちのめされていた。出来ることなら僕がこの世界の影を全部集めて、太陽から隠れてしまいたかった。

 

しかし、あんなことをした後だって、夏は僕を視界の隅に置いていたように思う。それを僕は罰として受け取った。太陽を穢した罰が、太陽を穢し続けることだった。皮肉だと思った。

 

 でも、時の流れと共に変わるものは確かにあって。

 

 不意に女教師の声が止んだ。ふと黒板を見れば、教科書の問題番号が書かれている。ざ、ざ、とシャーペンを走らせる音がゆったりと響く。時計の針は授業が残り十分であることを知らせていた。僕は怠けるようにペンをノックする。

 

 中学、高校と年齢が上がるごとに、段々と僕の周囲から嘲りはなくなり、それなりに人が近づくようになった。僕の本質は何も変わっていないのに、ゆっくりと世界は僕に優しくなっていった。冷たさに耐性の無かった子供が少し大人になって、防寒する術を身に付けたのだと思う。それはそれで自然なことなのかもしれない。

 

しかし対照的に、高校になってから夏はクラスから浮いていた。

夏は喋らなくなった。というより、何にも干渉しなくなった。その黒い瞳はいつだってどこか遠くを見ていた。人との接触を拒んでいるように見えた。夏は笑わなくなった。夏から温度がなくなっていくようで、僕はどうしようもなく不安だった。

夏が一人で、僕はクラスに馴染んでいた。その矛盾が吐きそうなほど気持ち悪かった。そして運悪く、僕らは二年連続で同じクラスになってしまった。

 

変わるものはある。変化を恐れていてはこの世界では生きていけない。

例えば、小学校、中学校、高校と学年が上がり、周りの人の顔ぶれも変わること。例えば、夏がずっと続けていた野球を辞めてしまったこと。例えば、夏の家で昔飼っていた犬がいつの間にか居なくなったこと。今はもうその名前だって思い出せないこと。例えば、夏と話さなくなったこと。その期間が、なぜかより夏への想いを強く育てていること。

 

当たり前に世界は変わっていく。当たり前に、僕達は置いて行かれるわけにはいかなくて。

 

──それでも。

 

思考。遠くでチャイムが鳴る。がたがたという音に沿って僕も席を立つ。礼が終わるとすぐに僕はトイレの個室に飛び込んだ。

 

誰にも見られない場所で顔を歪ませる。頬を嫌な汗が伝った。ギリと歯を食いしばる。息が荒い。制御できない感情をぶつけようと壁を殴りかけたが、寸でのところで拳を止める。

 

『あいつ、怖ぇな、相変わらず』

 

じりじりと吐き気に似た塊が胸を浸蝕していく。それは紛れもない、怒りの感情だった。

そう、僕は怒っていた。

夏が恐れられることを、夏が一人でいることを。

 

 なぜ夏が一人でいるのに、皆は放ってしまうのか。あんなに寂しそうな、苦しそうな目をしているのに、何故誰も夏を、太陽を掬い上げようとしないのか。その背中を抱きしめて、夏の本音を聴こうとしないのか。何があったのか、何が夏の温度を奪ったのか、何故それを夏から聴こうとしないのか。

 

夏はあんなにも輝かしいのに。あんなにも暖かいのに。

 

 拳を開いて、己の手の平を見る。血の気のないという言葉がぴったりな、薄気味悪い僕の手。悔しくなって、しかしこれも罰だと受け入れて、独り項垂れる。思い返すのは、あの夏の日。また冷たい汗が噴き出す。

 

 どんなに助けたくても、太陽には届かなかった。触れては駄目だと、僕はあの日の誓いを破れない。

僕は触れられない。夏に触れられない。

 

凍えたように息を吐き出してから、一応水だけを流してトイレを出る。今日はこの後、ショートホームルームで放課後のはずだった。

賑やかしい廊下を適度な顔をして歩く。皆、どこか正しそうな顔をしていた。

 

 一度だけ、禁忌を犯してから一度だけ、僕は夏と接触したことがある。

 

 いつかの放課後。あれは高校に入学してすぐだっただろうか。僕らは二人で日直の当番になったことがあった。あの時ほど自分の出席番号を呪ったことはない。

 

『愁』

 

 西日の差す教室。運動部のよく分からないコールが響く中、当番日誌を書いていた僕に、夏は近づいた。

 

『何で、喋らなくなったんだよ』

 

 日誌に落ちる影。僕は必死に無視をして、ペンだけを走らせた。ぽたり、と汗が落ちてインクが滲んだ。焦ったことを覚えている。ゆらりと影が動いた。ごつごつとした夏の手が、そっと日誌に添えられる。

 

『……あの時のこと、気にしてるのか?』

 

 バクバクと心臓が鳴っていた。ペンを進められなくなって、僕は固まった。

罪悪感で押しつぶされそうだった。どうか僕なんかにそんな痛ましい声色を使わないでくれ。お願いだから僕に構わないでくれ。

夏の手が、ふいに日誌から離れる。とっさに引き留めたいと思った。思ってしまった。

 

それでも僕は夏に触れるわけにはいかなかった。たとえ、声にだって。しかし。

 

『──俺のこと、もう嫌いか?』

 

 突然耳に飛び込んできた、信じがたい言葉に僕は勢いよく顔を上げた。

 そんなわけがなかった。僕が夏を嫌うわけが無かった。むしろ、僕は夏のことを大切に想っていた。それこそ触れられないくらい大切に。

 

 だって、夏は僕の太陽だから。

 

『違う』

 

 思わずそう呟いてしまって、ハッとした。慌てて口元に手をやる。やってしまった。

 しかし、いっぱいに目を見開いた僕に夏は一瞬驚いて、そして口の端を歪めた。

 

『──良かった』

 

 カーテンが靡く。夕陽が揺れる。赤。

 まるで違う世界で、違う世界の住人みたいに、妖艶に夏は嗤った。それはおおよそ七年ぶりの、夏と僕のまともな会話だった。

 

 思えばあの頃を境に、夏は段々と失われていった気がする。

 

 時間に煩い教師の声に急かされ、俯き加減でガラリと教室のドアを開けた。目の前。反対向きの上履き。

 

「愁」

 

 ふと、声が落ちた。

 ゆっくりと目を見開いて、視線を上げる。小麦色だった、きめの細かい肌。

 

「放課後、ちょっと残ってくれないか」

 

 夏が立っていた。僕より少し高い位置から、それでも僕を真正面から見つめるようにして、夏が立っていた。

 どくんと心臓が鳴る。ほぼ反射のように俯いた。だらだらと汗が流れる。あの夕焼けの日と同じだと思った。僕は夏を直視できない。

体ごと向きを変え、僕は夏の元を去ろうとする。もう一度過ちを犯すわけにはいかなかった。

 

「愁」

 

 しかし、ぱし、と夏は僕の腕を掴んだ。ギョッとして思わず振り返る。夏の手は冷たかった。あの夏の温度が嘘みたいに、夏の手は冷え切っていた。

 

「愁」

 

 その声に、恐る恐る僕は顔を上げる。高い鼻に薄い唇。久しぶりにしかと見る夏は、記憶よりも大人になっていて。

黒の瞳。ああ、逃げられない。

 

僕は夏を直視してしまった。直視してしまった。

 

「頼むよ」

 

 かすれ気味に発せられた声に、ゆっくりと頷く。懇願するような太陽の瞳に、どうして僕が抗えるというのだろう。

 

 頷いた僕に安心したのか、夏はゆっくりと僕の腕から手を離した。冷たかったはずの手、それでも温度が離れていく。固まったまま、僕は隣を通り過ぎていく夏の背中を見つめている。項、小麦色だった肌は随分と僕のような色に近づいていた。

 

どくどくと相変わらず心臓が煩い。しかし、先ほどとは違う。

その音には明確な温度があった。

 

 ほとんど放心状態だったが、ホームルームの開始を告げる教師のがなり声にようやく身体を動かす。

 席に着いて、胸のあたりに拳を置く。手のひらには薄く汗が滲んでいた。

 

 夏を傷つけてしまってから、その後の夏の情け深さに触れてから、僕は夏を穢してはいけないと、それだけに注意を払って生きてきた。愚かな自分を罰するために、夏と自分は別世界の人間だと言い聞かせて。

 しかし、どうしたものか。僕は根っからの愚か者だったらしい。

 

 ぐっと、もう一度拳を握る。

 夏からあの瞳を、あの懇願するような瞳を向けられて、浅ましくも僕は嬉しかったのだ。

 

 教師の声を聞き流し、僕は一心に机の上だけを凝視する。この後に訪れる放課後を待ちわびている。僕を誘うように換気中の窓から風がそよいだ。目を閉じる。思い出す。

 

 僕はグラウンドに立つ夏が好きだった。中学の頃、放課後、何を言っているのか分からない洋楽を聴きながら、僕は教室の窓からよくグラウンドを眺めていた。

 

 光る太陽。燦々とその恩恵を受けながら、黒いヘルメットの下で汗を光らせる。小麦色の肌。鋭い目。バットを振る、綺麗なフォーム。イヤホン越しに飛び込んでくる、金属バッドの心地よい音。青い空、飛んでいく白いボール。

 

 綺麗だった。一枚の絵画を見ているようで。窓枠は額縁のように思えた。色使いも、モチーフも、全てが完璧で、冷房の効いたこの教室とは完全に別世界の絵画。ただただ、僕はその絵が狂おしいほどに好きだった。

 

 目を開ける。チャイムが鳴り、生徒たちは教室を出て行く。

 

今。グラウンドに夏はいない。夏は絵から出てきた。

それがどうしようもなく、僕は悲しい。

 

(……夏)

 

夏。夏。僕の温度。

 

 皆がこの建物を出て行く中、僕は教室に居た。次第に教室には怠惰な生徒たちだけが残り、やがてその面々も出て行く。そして僕らは二人きりになった。

 

「愁」

 

 タイミングを見計らったようにして、窓際の気配が動いた。また、鼓動が音を立てる。自分の白い頬が分かり易く紅潮していることが簡単に予想できた。それでも僕からは顔を上げられない。机の木目がうごめいて見える程、僕は緊張していた。

 

 かたん、と隣の机が音を立てる。多分、夏は机に腰掛けている。見ることは赦されないから、夏の顔を想像した。

 ふ、と小さな吐息が聴こえる。笑った気配。夏が僅かに息を吸った。

 

「……愁が俺のことどう思ってるか分からないけど、良かったら聴いてほしい」

 

 酷く優しい声色で、夏はそう言った。指先が信じられない程冷たかった。

 僕は色も、温度も何も持っていない。だから僕は夏に何もしてやれない。それでも間違いなく、客観的な事実として、多分、夏は僕を頼っていた。唾を飲み込む。

 

 風が視界の白い髪を揺らす。カーテンレールが軋んだ音を立てた。心臓が不規則に暴れる。

 そんな僕とは裏腹に、風に乗って、夏は唄うように声を落とす。

 

「……俺さ、怪我出来ないんだ」

 

 風が止む。一瞬の静寂。僕は自分の意思で顔を上げた。

 

「……え?」

 

 夏は凛々しい眉を下げて笑っていた。黒い瞳には少し水分が滲んでいるように見える。きらきらと輝く太陽の光を背に受けて、夏は顔を翳らせた。

 

「なんか、そういう病気なんだって」

 

 僕は黙って夏を見る。ただ黙って夏を見つめる。

 

「傷口。出来たらもう治らない」

 

 夏は続けた。そのまま笑ってうつむく。まるで僕のように。

 

「一生塞がらない。から、かさぶたとかも出来なくて、血が止まらなくなるんだって。奇病? みたいな。……死ぬんだ」

 

 しっかりとした睫毛。目を伏せたまま、夏は長く骨ばった指で机のささくれを、愛おしそうに、ゆっくりと撫でる。

 

「徹底してるんだよ。母さん心配性だからさ。……小さな傷でもダメだって、全部」

 

 砂時計の砂が落ちていくように、夏の言葉は僕の胸に積み重なっていく。薬を飲み込むように、混乱を抜けて段々と理解が追い付いていく。

 

「野球も禁止されて、紙も触らせてもらえなくて、ロックとも暮らせなくなって。……学校も行くなって言われたんだけどな。……それは、嫌だった」

 

(ああ)

 

 驚かなかった。それよりもすとんと、腑に落ちたような感覚。

 すべてを理解した。僕のすべきこと、夏のために、僕がすべきこと。

 

「愁」

 

 夏が僕の名前を呼んだ。

 夏。僕の温度。僕の太陽。

 

 夏は嗤う。それはそれは哀し気に、救いを求めるような無防備な顔を、他でもない僕だけに見せる。

 

「俺はさ、どうすることもできないんだよ」

 

 雑音がなくなり、冷房が止まったことに気が付く。静かだった。必要なものしかない空間の中、僕と夏が息をしていた。

 僕は口を開く。何年ぶりだろう。

 

「……だから」

 

 心から、手放しでこんなにも喜ぶことが出来るのは。

 

「だから夏、そんなに苦しそうなんだ」

 

 椅子を引いて立ち上がる。嬉しかった。

 

 ずっと、夏が死んでいくように見えていたんだ。

 皆が怖いと恐れる無口な夏は口をふさがれている風にしか見えなくて、タブレットの教科書は目隠しをされているようにしか見えなかった。夏が苦しんでいることは知っていた。

 それがまさかこんな理由だとは思わなかったけど。

 

 つまりは、夏が生きていられるよう、夏以外の人は夏をコンクリートの中に閉じ込めたのだ。

 

 夏を正面から見つめる。夏はすがるように僕を見た。僕にはそう見えた。

 

 やっと分かった。やっと、分かった。

 

 僕は夏に温度をあげられない。僕は何も持っていない。けれど、閉じ込められた夏を解放することなら、少しは出来た。その方法が、漸く分かった。

 

「ねえ、夏」

 

 いいものを思い出し、机の端、青いペンケースをちらと確認する。開け放されたチャックの中からは、お目当てのものが少し顔を出していた。

 

 皮肉な話だった。死なないよう、無理やり命を繋ぎとめているはずの夏は、ゆっくりと箱庭の中で殺されていくようで。

 

「僕が今、こうしてここに立っているのはなんでだと思う?」

 

 太陽を傷つけるなんて、神でも赦されない冒涜だ。それでも太陽は言った。分かるまで教えてくれ。分かるまで、教えてくれと。

あの時、僕は罪を犯したんだ。そして今が、その罪を償う時だ。

 

 やはり夏は、絵画の住人だった。こちら側の人ではない。

 夏は僕の温度だった。夏は僕の太陽だった。

 

「夏が、僕を引き留めているんだよ」

 

 ペンケースの中からカッターを取り出す。夏は目を見開いた。黒の太陽がゆらりと揺らめく。

 

「夏」

 

 太陽の名前を呼ぶ。夏は長い睫毛を瞬かせた。

 

「──いい?」

 

 僕は少し首を傾げた。

 これが僕の唯一、あげられるもの。夏を輝かせる方法。夏を生かす方法。僕だけが出来る、夏の救済。

 

 どちらのものか分からない、吐息が漏れる。僕も夏も、多分安心していた。

 夏がそっと右腕をこちらに差し出してくる。青い血管が浮き出ている。命を知らせていた。黒い瞳が優しく溶ける。夏は笑った。

 

「──ありがとう」

 

 夏の赦しを得て、僕も目を閉じる。贖罪は成された。

 

 規律正しい箱庭の中、僕は夏の白い白い腕に刃を這わせる。ぷつりと膜が破れたような感触。たった二センチの赤、滲む命の温度に、夏は顔をほころばせた。

 

 涼しい風が教室を通り過ぎていく。

夏。僕らは生きていた。