生まれつき、私達は宝石を持っていた。
目覚めた時のことを、よく覚えている。
きっとあれは夜中だった。目を開けているのかどうかも分からないような暗闇で、私はしばらく天井を眺めていた。風の通らない、鈍くくすんだ匂い。部屋は埃とカビにまみれていた。身をよじればピリと頭が痛む。細かくうねった髪がささくれた木の壁に絡まっている。眠る身体をかたどるように、その棺は私と共に在った。
指を動かし、絡まった髪を解く。つま先を逸らすとざらついた感触が指の裏にくっついた。息を吸うと胸が動く。口から吐いた空気が温かい。呼応するそれらが自分の体であることを知り、ここが窮屈だと思った。
腕に力を入れ、重い胸を支えて起き上がる。冷たい澱にくしゃみを落として、私は初めて音を鳴らした。
『ひとり、ひとつ。私達は、特別な音を持っている』
ぎぎ、ちろん。じり、ごとん。
錆びついた月の下、ぬるい温度が肌を撫でる。誰もが眠る、野ざらしの世界。取り留めもない道を歩けば、小さく音が付いてきた。
私達は胸の中に宝石を仕舞いこんでいるらしい。一歩、踏み出した振動が体の内側に伝わって、宝石へと手を伸ばす。刺激を受けた胸の石は、お返しにその身を震わせる。そうして帰ってきた振動が、私の音になるらしい。
ひとり、ひとつ。どの宝石も律儀に返事をするものだから、街はいつも音で溢れていた。暖炉の側、剝がれかけた交差点、夏の廊下、閑散とした市場、誰もいない公園でさえ、風に乗った音が届いていた。唯一静かだったのは、太陽の眠るこの時間。胸の重さを棺に預け、誰もが肉体を休めていた。
ちろんと、あぜ道に立ち止まる。荒々しい夜風は私のひしゃげた赤い髪を攫っていく。伸びっぱなしの雑草は迷惑そうにこちらを睨んでいた。当てつけのように砂利を蹴ると、ぎちり。灰色鼠の断末魔のような、私だけの音が鳴る。
ひとり、ひとつ。宝石の種類や形は皆違うから、同じ音を出す者は二人といないらしい。
塗りつぶしたような暗闇が、口を開けて私を見ている。腹立たしい夜、不機嫌な夜。
――るらら、ゆう。るる、りりら。
ふと、小さな唄が耳をくすぐった。
無骨なあぜ道を振り返る。刹那、秋の穂を想わせる、透き通った髪の色が私の世界を彩った。
るり、るらら。細い足がステップを踏むたび、華奢な音色が夜を飾っていく。海洞窟を秘めたような、冷たい青の瞳。くすんだ月明りの照らす、酷く退屈な暗い夜。まっさらな素足をさらけ出し、美しいあの子は私の前に立っていた。
「今晩は。私と一緒に遊びましょう」
白い肌。整った指がこちらに伸びてくる。しなやかな微笑みに相応しく、彼女の宝石はカナリアがさえずるような音を奏でた。あの子の影に囚われた、私は息を止めている。
街でいっとう綺麗な音を奏でる彼女は、全てから祝福されていた。彼女が指をひと振りすると、乾いた陽の光は淡く色づく。散歩をすれば草木は踊り、瞬きひとつに月は優しく微笑んだ。
まるで五線譜が風に浮かんだよう。歩くだけで誰もがどよめき、あるいはうっとりと耳を澄ませてしまう。それほどまでに、彼女は綺麗な音を持っていた。
「今夜は眠れなかったの。……あなたも同じ?」
手は差し出したまま、彼女は透き通った音で首を傾げた。耳にかかった髪がひと房、重力に従って落ちていく。
胸の前で拳を握りしめたまま、私は一歩後ずさる。
「こんな夜に、もったいない」
冷や汗をかきながら、胸の宝石はいつにも増して酷い音を鳴らしていた。
私は彼女とは違う。眠れなかったわけじゃない、わざとこの時間を選んで生きていただけだった。
「どうして?」
もう一度、彼女は小さく首を傾げた。優しい風が吹き抜け、仄かな若草色のワンピースが夜を飾る。
「明るい方が、君の音はよく届く」
無論、そんな事実はなかった。眩しい朝も底知れない夜も、空気はその身を震わせ、平等に私達の音を運んでいく。
それでも、彼女はいっとう綺麗な音を持っていた。 森羅万象に愛された幸福な音色。はぐれ者の夜に閉じ込めておくにはあまりにも惜しかった。
彼女は太陽の下で微笑んでいるべきだった。……私のことなど、知りもしないまま。
「それなら朝日が昇るまで、音を奏でて遊びましょう」
私の気も知らぬまま、彼女は優しく足先を打ち付けた。ゆうらら、りらら。彼女の宝石がこだまして、私はまた躊躇ってしまう。
「私の音と、ぶつかるよ」
「それなら負けないよう、私も音を奏でましょう」
くすくすと、彼女はその場で回って見せた。刺繍のあしらわれたスカートの裾がふわりと広がって、魔法のような彼女の音を彩った。
ふたつの青い湖に、睫毛が優しく影を落とす。彼女はまた、私に手を伸ばす。
「さあ」
月明かりを纏った鋭い純白は、きらきらと輝いて私の目に焼き付いた。
もし、その手を取ったらどうなるか。ほんの一瞬、つたない想像に身を任せる。生まれてこの方、私は誰とも遊んだことがなかった。
まるで天使の落とし物。崇高な音を持つ、神様に選ばれたあの子。
昼間の子供達のように、公園に行ってみるのはどうだろう。一緒にブランコを漕いだり、シーソーに乗ってみたり。……ううん。せっかくだから道具は要らない。おにごっこをすれば、きっと彼女はいっとう素敵な音を奏でてくれる。あるいは月の光をスポットライトにダンスを踊る。音色は言わずもがな、透き通った彼女の髪は夜空のキャンバスによく映えるだろう。いっそ、いつものあぜ道を歩くだけでもよかった。
星屑の舞うような、金平糖が転がるような。誰もが羨むその音に、ひと晩中耳を傾けることが出来たなら。独り占め出来たなら。薄汚れたこの夜は、どんなに輝くことだろう。
特別な彼女の隣。一生忘れられないような、完璧な夜。……けれどそこには、きっと私の音があった。
「ごめんなさい」
ごとん。がりら、じじ、がらり。
まるで蟾蜍の呻き声。耳障りな音を散らかしながら、彼女に背を向け、私は走り出していた。
汚れた靴が砂利を蹴る。足先の衝撃が脹脛、太ももへと伝って宝石へと帰っていく。ちろんと、また貧相な音が鳴る。耳を塞げば、今度は腕の振動が宝石に見つかった。
ごろ、ががが。ぎち、じりん。喉を抜けていく冷たい空気、張り裂けそうな肺。頬を伝う涙ですら、私の恥を晒していた。
見ないで欲しい。知らないで欲しい。お願いだから、どうか私を聞かないで。
目を瞑ると、瞼の裏にあの白い手が蘇る。私は私の音であの綺麗な音色を汚したくなかった。けれど、ああ。もし私がこんな音でなければ、きっと迷わずあの手を取って、この夜を飾ることが出来たのに!
「明日も私、ここであなたを待ってるわ」
風が不満げに私の背中を押す。あの子の音は手のひらをすり抜け、幻聴のように鼓膜を揺らした。彼女はその声ですら美しかったのに。
はしたなくて恥ずかしい。私は、私の音が嫌いだった。
♢♢♢
燦々と、古びた窓から鋭く陽が差し込んでくる。太陽は街の人のためにあった。
堂々と燃え盛る、その巨大な瞳から逃れるよう、古びた棺で眠りに落ちる。瞼を閉じる直前、朽ちた天井に睨まれながら、私はいつも夢に見た。
もしも、私の音がこうでなかったら。もしも可憐な花のような、透明なピアノのような、誰もが羨む音を奏でることが出来たなら。
きっと私は目いっぱいに陽の光を浴びるだろう。胸を張って石畳を歩き、誰かと一緒にシーソーに乗る。思い切りこの身を伸ばしながら、出鱈目なステップでダンスを踊る。そこには恐怖も惨めさもない。暗いあぜ道なんて知らぬまま、惜しげもなく私の音を響かせて。
どんなに素敵なことだろう。私が私を恥じらわずにすむなんて。
もしも私の音がこうでなかったら。もしもこの世界を愛することが出来たなら。
もしも、神様に愛されていたのなら。
『胸の宝石はね、交換出来るの。あなた、知ってた?』
ぎご、ががり。じりごどん。
結露に濡れた窓の外、世界が茜色に染まる頃。私は重い胸を引きずって、割れた鏡の前に立つ。
棺と同じ、焦茶色のワンピース。裾の埃を払い、古びたブラシで赤毛を結う。持っている中で一番上等な木靴を履いて、湿っぽい部屋から抜け出した。
歩く私の音に合わせ、錆びついたランタンが揺れている。忍び寄る暗がりに安堵しつつ、いつものあぜ道を突き進む。
今宵は新月。暗闇を恐れた人々は、早々に胸の荷を下ろしていた。
眠った街とは逆方向。放置された藁を横目に、黒い水たまりを超えていく。桟橋を軋ませ、野を踏みしめると見えてくる、冷たい森の入口。大きな楡の木の下で、あの子は私を待っていた。
「今晩は。いい夜ね」
小さな花の描かれた白いランタン。仄かな明かりのすぐ側で、彼女は私に笑って見せた。
一体、何が彼女を惹きつけているのだろう。あれからあの子は宣言通り、何度も夜に現れて、何度も私を見つけ出した。
私はその度に恥ずかしくてたまらなかったのに、彼女はお構いなしに隣を歩き、りりら、ゆう。光に満ちたその音を奏でた。私の卑屈な後ろめたさは、どうやら彼女には関係のないことのようだった。胸の宝石に恵まれた、彼女はいつも自信に満ちていた。
ふたつのランタンを挟み、枯れた芝に腰を下ろす。傷ひとつない膝をかかえたまま、あの子はるると首を傾げた。
「何だか、元気がないみたい。それなら今日は、そそっかしい林檎売りの話でもしましょうか」
薄い桜色の唇が、うっそりと弧を描く。まるで三日月でも住まわせているように、彼女は口元に常に笑みをたたえていた。
「……昨日、君の言ったことを考えていたんだ」
喉の煤を払うように、咳ばらいを落とす。夜に顔を合わせる度、私達は少しづつ言葉を交わした。
もちろん自分の音が気にならなくなったわけじゃない。ただ、私が思っている以上に彼女は諦めが悪かった。それに大きな太陽の元、たくさんの人達と関わる彼女は、私より物を知っていた。
「昨日……。何を話したかしら。夕飯のパイが美味しかったこと? 木の実を盗んだリスのこと?」
「違う。……宝石を交換できるって話だよ」
なるべく音を鳴らさないよう、木の幹に背を預け、脱力したまま空を見上げる。
おっちょこちょいな郵便屋の失敗談、野良猫の恋愛事情、焦がしてしまったパンのこと。案外お喋りだった彼女は、りりららと音を奏でつつ、たわいもない昼間のことをさえずった。……そんなおもちゃのような彼女の生活の中に、当たり前にあった知識。
「あの話を、もっと聞かせて欲しいんだ。……どうやって交換するの? 取り出せるような場所なんて、どこにもないのに」
首は動かさないよう、横目で彼女を見る。
月の色をしたノースリーブのワンピース。陶器のような二の腕をさすりつつ、彼女は笑って瞼を閉じた。
「つまらないでしょう、そんな話は。もっと楽しいことを話しましょう」
「そんなことない。私にとっては大事な話」
身を乗り出した途端、ぎちちと音が鳴る。反射的に顔を顰めると、また私の宝石は醜く嗤った。
確かに、あの音色を持つ彼女にとっては酷くつまらない話だろう。昨日、その話に触れた時だって、私が口を挟む間もなく、気がつけば彼女の話は移ろっていた。
けれど、簡単に聞き逃せるはずもない。彼女が何気なく口にしたその知識は、棺に横たわる私の空想をどこまでも深くした。
ひとり、ひとつ。この世に同じ音を出す者は二人といない。宝石の種類や形が違うから。
それならもし、私の胸の宝石がその形を変えたなら。貧相なこの胸に、新しい宝石が輝くのなら。
「教えて欲しい。どうやるの」
じじり。首を動かし、改めて彼女を見つめる。
ランタンに照らされた、完成された横顔。彼女は初めて唇を真っ直ぐに引き、詰るように私を見ていた。
「あなた、宝石を交換したいの?」
「だって、私の音は変でしょう」
正直な彼女は何も言わなかった。少し寂しかったけれど、正しいと思う。藁を喰む牛、死にかけた蝶番ですら、私よりも綺麗な音を持っていた。
夜の風に木の葉がさざめく。靡く髪に紛れ、彼女はほんの一瞬目を伏せた。未知の救済に縋る私に、その表情は分からない。
やがて視線はそのまま、彼女はまた口元に鋭い弧を描く。
ゆう、りらら。あやとりでもするように長い指を絡ませながら、あの子はそっと音を奏でる。
「宝石の交換は、愛の証。互いを愛した者同士の、気の狂った行為なの」
曰く。心の底から大切な人に出逢ったら、人は自分の全てを与えたくなるのだと。
ひとり、ひとつ。宝石は謂わば命の核だった。そんな物を交換したくなるほど、私達は誰かを愛することが出来るらしい。
「お互いが愛おしくて愛おしくて、どうしようもなくなって。そうして初めて、私達は胸の宝石を交換するの」
胸の宝石が変われば、当然振動も変わってくる。
それまで自分のものだったはずの音が、最愛の人から聴こえてくる喜び。愛した人の音色が、自分の身体から聴こえてくる幸せ。途方もない愛のため、私達は宝石を交換するのだと。
「幸せなのでしょう。どこにいても、何をしていても、大切な人の音を耳に出来るのだから」
愛する誰かの宝石は、その重みすら温かいらしい。
がろ、と。歪なため息が零れる。せっかく彼女が話してくれたというのに、私は落胆していた。
思った通り、この胸の宝石を変えれば、私は新しい音を手に出来る。……けれど。
「……なんだ。宝石って、売ってるわけじゃないんだ」
まるで、小石に躓いたような気持ちだった。
頭の片隅、棺の中で膨らませた空想が風船のように破裂する。宝石を、音を変える方法があることを知っただけ。結局のところ、私には縁のない話だった。
朽ちた小屋の中、太陽を避け、隠れるように生きてきた。愛し合う相手なんて、私にいるはずがないのだから。
「――おかしなの!」
ゆうり、らら。
その瞬間、慌てた妖精の羽音のような、金色にきらめく音が弾けた。
「宝石が売られてるだなんて、そんなこと!」
肩を落とす私のことなどお構いなしに、彼女は身体を折り曲げ、それは楽しそうに声を上げて笑った。
何がそんなにおかしいのだろうと思う。宝石の交換と聞いて、疑いもせず花屋のような場所を思い浮かべていた私には、よく分からなかった。ヒマワリやカーネーションのように、私の空想の中では宝石だって可愛らしい棚に並べられていたというのに。夜を選んで生きている、私は物を知らなかった。
それでも綺麗な音色を散らしつつ、あんまりにも彼女が笑うものだから、私もだんだん恥ずかしくなった。
ぎろ、じりり。耳が熱くなって、頬が熱を帯びていく。いつものような、腹の底が冷える恥ずかしさとは少し違った。隣の音色が綺麗だからだろうか。不思議と嫌な感じはしなかった。
「仕方ないよ。だって、私は何も知らないから」
少し不貞腐れてみれば、彼女はようやく目尻に溜まった涙を拭いた。頬が赤らんでいるせいか、笑い終えた彼女はいつもより幼く見えた。
ふたりの間、ランタンが驚いたように音を立てる。らるらと呼吸を落ち着けた、彼女はこちらへ顔を近づけた。
「ねえ、あなた。私と交換しようとは思わないの?」
視界いっぱいに広がった、彼女の瞳の中の青。
海まで持ち得てしまう彼女の美しさに、一瞬息を詰めながら、私はごとんと後ずさる。
「それって、愛し合う人同士がすることなんでしょう?」
「愛なんて。きっと、後からでもついてくるものよ」
何でもないように彼女は謳い、遠慮もなしに私の手首を握った。気が付いた時には、冷たい指先が彼女の上等なワンピースの生地に触れている。
瞬間、カッと顔に熱が集まった。手のひら、絹の手触りと確かな温度に、薄くて白い皮膚の下を想像してしまったから。
ゆうら、りり。ごと、ぎちち。
まるで砂利と星屑。ふたりの振動が、夜の空気に溶けていく。
「どう?」
透き通るような髪の下、冷たい海がうっそりと笑う。
握られた手首がひたすらに熱い。彼女は魔女のように私の気持ちを見透かし、一層強く私の手のひらを自身の胸に押し付けた。逃れられないまま、私は気づけば自由な方の手で自分の心臓を抑えている。そうしないと、錆びついた私の宝石は砕け散ってしまいそうだったから。
夜のヴェールを背負い、彼女は妖しく首を傾げた。その煌めく青の奥。揺らがない水面に、私はそっと息を飲む。
実際のところ、聡い彼女は愚かな私を揶揄って遊んでいたのかもしれない。金曜日の黒猫のような彼女は、私の反応を楽しんでいるようにも、気まぐれな冗談を言っているようにも見えた。彼女は思いの他、お喋りが好きだった。
ただ。……それにしては、どこか。
(もし、私が彼女の音を奏でられたなら)
波打つ宝石から気を逸らすよう、ひとつ目を瞬く。ゆっくりと、焦がれるような全身の熱を冷まし、慣れ親しんだ空想へと手を伸ばしてみる。
この邪な衝動のまま、その問いに返事をするのは不義理だと思った。その深い海に飲み込まれる寸前、なぜか喉元にナイフを突き立てられたような感覚を覚えたから。
美しい者の頭の中など、私にはさっぱり分からない。それでも彼女は、ただ私の答えを待っているような気がした。
ゆうり、らら。るらら、りら。
考えたことがないなんて、そんなはずもなかった。 いつか変えるなら、いっとう綺麗な音を奏でたい。
私は私の音が嫌いだった。きっと、私の宝石も嫌いだった。もし私が彼女のような音を奏でられたなら。草木を愛で、月や太陽まで惚れさせるような、そんな音色を響かせることが出来たなら。私の世界はどれだけ優しく輝くことだろう。惨めさに泣いていた私は、どれほど救われることだろう。
私が彼女の音を持ち得たら。……私のこの身体で、彼女の音を奏でられたなら。
ぎり、ごとん。
自分の胸に当てていた手を下ろせば、すっかり冷めた音が鳴る。
「君の音は、君の音だ。……私の音には、ならないと思う」
刹那、私の手首を握る、彼女の指がぴくりと跳ねた。絹の下、彼女の宝石は規則正しく脈打っている。私は私の答えに、一度深く頷いた。
確かに、彼女の音は私の理想そのものだった。夜、寂しい棺の中の空想に、彼女が出てこない日はなかった。彼女の持つ美しい音色に、私は心底焦がれ、陶酔していた。
ただ、それは彼女が持つ音だったからだ。どれだけ得意の空想を膨らませたところで、彼女の音は彼女の物。悲しいことに、決して私の音にはなり得ない気がした。……たとえ、この場で宝石を交換できたとしても。
沈黙を撫でるように木の葉がさざめいていく。彼女は少し間を置いて、ようやく私の手首を解放した。
「可笑しなの。私が宝石を交換したら、私は私じゃなくなるの?」
「そうじゃない。ただ、君の音は、君によく似合ってる」
るらら、りら。
金色の髪をしだれさせ、彼女は興味深そうに頬杖をつく。右の手首、熱の名残に触れながら、その口元の三日月が消えていることに気が付いた。
ゆりららと、彼女はピアノを弾くように、指先で自分の頬を叩く。まるで飴玉でも転がすみたいに、私の返事を味わっているようだった。
僅かに揺れるランタンの明かりがその横顔を照らしている。それまで彼女を彼女たらしめる鋭い表情にばかり気を取られていたが、その顔は案外あどけなかった。
やがて、彼女は綻ぶように頬を染めた。
「……本当はね、私もそう思うの」
諦めたように。あるいは、安心したように。
私に向き直った彼女は、両の手をその胸に添えた。ゆうら、らる。彼女をやさしく宥めるように、小さく音が鳴る。
「私は私の音が好き。世界で一番、愛してる。……この胸の宝石を手放したくないと、心からそう思うわ」
少し照れくさそうに、そして心底嬉しそうに。まるでただの少女のように、彼女は笑った。
刹那、がこん、と。私の中で何かが腑に落ちる。
「うん。きっと、それがいい」
自分の音が好き。世界で一番愛してる――。それは神様に選ばれた者だけが使える、ある種の呪文だった。
まるで、星明かりのブーケでも手にしたよう。きっと初めて見た彼女の笑顔は、愛おしい煌めきを宿していた。それまででも十分美しかったはずなのに、丸裸になった彼女はさらにその身を正しく輝かせる。それは私じゃ一生かかっても到達できない、圧倒的な境地。彼女の音色が私に似合わない理由だった。
気付かないうち、結った髪を撫でている。懸命に覚えたはずの身だしなみでさえ、今はどうにもみずぼらしい。
私は私の音が嫌いだった。彼女は生まれた時から、特別な宝石を持っていた。
少しだけ、形や作りが似ているだけ。彼女と私は、まるきり違う生き物だった。
穏やかな絶望の中、ぼやけた頭は下手な空想を繰り返す。
あの音色に守られてきた彼女の宝石は、どんな形をしているだろう。何者にも染まらない、強い心のすぐ側で、どんな色を見せているのだろう。
「君はきっと、綺麗な色の宝石を持っているだろうね」
緩んだ宝石の軋む音。意図せず零れたたわいもない言葉に、彼女はりららと頷いた。
「ええ。ありがとう」
私の宝石について、彼女は何も言わなかった。謙遜やお世辞を含めて、彼女は嘘を言わない人だった。その事実に私は密かに落胆して、そんな自分がまた少し嫌いになった。
静かになった夜の海。息継ぎでもするように、自分の胸を眺めてみる。
この薄い皮膚の下に仕舞われた宝石の色を、私はまだ知らない。だって私は誰ともこの石を交換したことがなかったから。……それでも無駄な期待をするほど、既に私も無知ではなかった。
ぎちち、ごとん。澄んだ夜を穢すよう、錆びた音が伸びていく。
私は私の音が嫌いだった。だからきっと、この胸の宝石も醜い形をしていることだろう。
♢♢♢
月の明かりが太陽の輝きであることを知った時の喪失感を、今でもよく思い出す。
遥か昔から、世界は太陽を中心に回っていた。人々が活動するのはいつだって昼間の明るい時間。熱い光のおかげで私達は時の流れを知り、草木は日光で息をした。この世を牛耳る巨大な瞳が、私は憎くて怖かった。……だから太陽が絶対に干渉できない夜の時間、静かにその身を浮かべる月に、ひとりで希望を見ていたのかもしれない。太陽が昼の女王であるならば、月こそが夜の王であると、私は信じて疑っていなかった。
しかし、思い返せば月明かりに温度はなかった。静かな明かりでは作物が育つこともなければ、本を読むことも出来ない。新月の夜だって、古びたランタンひとつで私達は月の役目を補えた。……しかもその些細な明かりですら、元を辿れば太陽の物だったなんて。
ぎちり、ぎぎ。
少し頭を動かせば、短く切り揃えた髪が木の幹に引っかかる。大きな楡の木に背を預け、私は物言わぬ満月を眺めていた。
だって、悲しいじゃないか。月は唯一、あの恐ろしい太陽と渡り合える存在だと思っていたのに、結局のところ太陽の付属品に過ぎなかっただなんて。あんなに強大で美しい月ですら、太陽に与えられる物を持っていなかった。
「――知らない音ばかりなの」
りりら、ゆう。
靡く風に、彼女は唄う。背中を覆う長い髪、小さな頭を幹に預け、彼女もまた月を見ていた。
「一番高くブランコを漕げたあの子も、ちぐはぐ靴下のあの子も、みんな違う音になっちゃった。公園にも来てくれないの」
膝を抱えながら、彼女はつまらなそうに肩をすくめる。
連日の彼女の話によると、どうやら巷では宝石の交換が流行っているらしい。
「いいことだよ。それぞれに愛し合う人がいるんだから」
「でも、みんなとすれ違っても私、もう顔を見なきゃ誰が誰だか気づけないのよ」
「それなら、顔を見たらいいだろう」
「面白くないでしょう。私達、せっかく音を奏でられるのに」
拗ねてしまったのか、彼女はるららと腕の中に顔を埋める。
視線だけを動かして隣を見れば、可愛らしい彼女のつむじが見えた。出会った頃は同じくらいの背丈だったはずなのに、私の身長が勝手に伸びるせいで、すっかり彼女の目線を追い越してしまっていた。
くすぐったい春、蛍の踊る夏、達観した秋、白い雪の睨む冬。変わらない楡の木の下、いくつもの四季を跨ぎ、私と彼女の間には長い月日が流れていた。
太陽を恐れるまま、私の世界は相変わらず棺と夜を中心に回っている。彼女と会うことが日課になって、私は音を鳴らさずに動くことが上手くなった。
つまり、忌まわしいあの音は私を囲ったまま。愛する人など見つけられず、私の宝石はこの胸に居座り続けている。
「あなたのことは、どこに居たってすぐに分かるわ」
ゆう、らりら。私の考えを見透かしたように、彼女は青い瞳をこちらに向けた。美しい音色を持つ彼女の宝石もまた、気高くその胸で輝き続けていた。
「それはどうも」
瞬きだけで頷くと、彼女は何でもないようにまた月を見上げた。細く真っ直ぐなその髪は幹に絡まることなく、彼女の二の腕を覆っている。
たとえば靴を履くのが苦手なこと。八番通りにある店のピクルスが好物なこと。昼間のあらゆる事象に対し、案外不満が多いこと。けれど言っても仕方ないからと、普段は巧妙に隠していること。
夜を共にするうちに、奇しくも私は彼女に詳しくなっていた。口元に飼っていた三日月もどうやら余所行きだったらしい。妖艶さのヴェールを脱げば、他の少女達と何ら変わらない、むしろ彼女は素直な性格をしていた。
私の音に対しても彼女は躊躇せずに触れてきた。それでも彼女は事実を口にしただけで、そこに嫌味や皮肉はない。その証拠に汚いだとか耳障りだとか、そういう言葉を当てがわれたことは一度もなかった。だから私も、傷ついたりはしなかった。
私が木の下に現れるたび、彼女は嬉しそうに音を奏でた。熱風に参る夜は氷菓子を、凍てつく夜は毛布を持って、次の日には忘れてしまうようなたわいもない話を、彼女は詩でも綴るように話してくれた。悪い気など、するはずもなかった。
特別な、選ばれた音色のすぐ隣。
毎晩飽きもせず、私達はただひたすらに月を見ていた。
「あなたは、どうして私と一緒に居てくれるの?」
――だからその言葉は、私の口から出たものだと思ったのに。
ぎり、と。ひしゃげた音を立てて隣を見る。問いかけたのは彼女の方だった。
青の双眼。底知れない彼女の深海は、ただひたすらに私の影を映していた。普段、私達を阻んでいるランタンも今日はいない。
「……一緒に居てくれているのは、君の方だろう」
戸惑うまま、彼女の海に石を投げる。
成長したのはこの身体だけではない。時は流れ、私は昔ほど無知ではなくなっていた。
たとえば月と太陽の関係。植物の名前や、リスの特性。彼女と会うようになってから、私はこの頭にたくさんの知識を詰め込んだ。私の生まれたあのあばら家には、古い本がどっさりと眠っていたから。
私は本を読むようになった。世界を知るようになった。彼女から聞くまで宝石が交換できることを知らなかったように、私が知らないだけで、ひょっとすると交換する他に音色を変える手段があったかもしれなかった。
知ってみようと思った。私は私の音が嫌いだったから。……それが理由のひとつ。
もうひとつは、せめて彼女との話についていけるようになりたかったこと。お喋りだった彼女に返せるような話題を、私は持ち合わせていなかった。
珈琲の染みでくっついた頁。挟まった羽虫を払いながら、ざらつく活字を目で追った。私は知識を手に入れた。
それでも、私には彼女の質問の意味がよく分からなかった。
るるららと。気分屋な猫のように、彼女は怒った音を立てる。
「私が嫌なら、あの家から出てこなければいいじゃない。きっと不自由しないでしょう」
「君だって、私が嫌ならここに来なければいいだろう。こんな夜でなくたって、君は街で輝けるのだから」
反射的に返せば、ついに彼女は頬を膨らませ、黙りこくってしまった。取り残されてしまった私は、月明かりに照らされたあどけない横顔を眺めることしか出来ない。
だって、おかしな話だ。
神様に愛された少女。誰もが羨む祝福の音色。
月日が流れ、掴みどころのない口調、妖艶な微笑みがなくなっても、彼女の輝きが薄れたことなど一度もなかった。彼女がいくら人間らしくなろうと、彼女の価値が損なわれることはなかった。
ゆうら、りら。るる、りりら。
私は私の音を、彼女は彼女の音を持っていた。私は私の音が嫌いで、彼女は彼女の音を愛していた。
その美しい音色を太陽の下でなく、わざわざこんな夜に煌めかせてくれたのは。白く華奢な手を惜しみなく振りながら、木の下で私を待っていてくれたのは。
私の隣に居てくれたのは、紛れもなく彼女の方だったのに。
「夜は、あなたの物みたい」
悪戯に目の下を擦り、彼女はまた月を見上げた。
「……そんなはず、ないよ」
音が響くから、私は首を横に振ることが出来ない。言葉だけの否定は上滑りしたまま、彼女に届くことはなかった。彼女は今も変わらず、常に自信に満ちていた。
眠っていた木の葉を起こすように、背後から風が吹き抜ける。鋭い毛先は苛立つように私の頬を叩いた。
ふと、石鹸の清潔な香りが鼻を掠める。夜風は彼女の髪は優しく絡め、深い空へと誘っていた。まるで彼女に配慮したような、雲ひとつない夜。今日は星がよく見えた。
昼と夜。太陽と月。
太陽の輝く眩しい時間とは正反対、暗がりの夜は確かに私にお似合いだった。けれど、夜が私の物であるはずもない。
対等にはなれない。だって私は、太陽の付属品である月にすら、手が届かないのだから。
「ねえ」
ゆう、りらら。
透明な彼女の唄声に、木の葉達は一斉に押し黙る。風が止んだのは、彼女の話を遮らないようにするためだったのだろう。それを端から台無しにするように、ぎちりと私の宝石が呻く。
彼女は気にも留めぬまま、大きな夜空に腕を伸ばす。
「もしもね。もしもの話」
らりら、ゆう。るる、りりら。
星々と戯れるように、彼女は細い腕を動かした。まるでオーロラの涙ような、美しい金色の音色。聴き惚れた月は微笑み、嬉しそうに草木が揺れた。彼女の白い指先は、永遠の夜空によく映えた。
りりら、ゆうりら。らる、らりら。
いつもに増して煌めく音色を身に纏い、彼女は静かに私を見つめる。
何度も私を映した、彼女に似合った青い瞳。その氷河の水面にナイフの切先を見る。かつてあの質問を投げ掛けた、幼い彼女を思い出す。
ぎぎ、じじり。不快な摩擦に、胸の宝石が軋んでいる。
「私の音がこうじゃなくても、あなたは一緒に居てくれた?」
刹那、彼女はピタリと腕の動きを止めた。
辺りは信じられないほどの静寂に包まれる。一心にこちらを見つめる青い瞳に、気づけば呼吸を止めている。
状況はあの時と同じだった。彼女はその海に底知れない冷たさを称え、ただ私の答えを待っていた。だから私もあの時をなぞるよう、静かに思考を巡らせる。
もし、彼女の音が彼女の音でなかったら。
もし、彼女が特別ではなかったら。
誠実に応えなければと、あの時のようにそう思う。
その日の彼女はいつもより静かで、どこか怒っているようにも思えた。それが恐ろしかったわけじゃない。ただその煌めきのせいか、彼女には触れたら消えてしまいそうな脆さがあった。思い返してみれば、お喋りだったはずの彼女は、月日と共にその口数を減らしていた。
私と彼女は違う生き物だった。美しい者の頭の中など、私にはさっぱり分からない。
もし、彼女の音が彼女の音ではなかったら。
……もし、彼女が特別ではなかったら。
「居た、気がするよ」
酷く、曖昧な音が鳴る。
その言葉は決して嘘ではなかった。けれど、私は答えを急いでしまった。私には上手く想像が出来なかったから。
思えば私は昔ほど空想が得意ではなくなっていた。棺で眠る前の空想は湿っぽい活字に支配され、私の頭の甘い期待は凍ってしまった。私は既に無知ではなかった。
手を伸ばせども、空想は上手く形を成さない。だから彼女の問いに応えきれなかった。……いや。それは違う。あの時の私だってそうだった。
ゆうら、りら。るる、りりら。
私が惹かれた彼女は、私を辱める彼女は、いつだって彼女の音がした。あの崇高な音色は誰のものでもない、彼女の物だった。――それでも、どうやら私は間違えてしまったらしい。
ぎりり、じり。
私の声は空気を伝い、彼女の鼓膜を震わせた。止める術もなく、そのまま彼女の心に、美しい宝石に触れてしまう。
失敗したと、瞬時にそう思った。だからと言って、正解も分からなかった。
静寂が解けていく。案の定、風が枯れるように、彼女は笑った。
「私ったら、嫌な子ね」
彼女の海が翳っていく。
ぎち、じりり。取り返そうと喉の奥で音が鳴るけれど、とうとう言葉にはならなかった。傷つけたことを理解している癖に、それを癒す知識を持ち得ていなかった。
何を言えばいいのか分からない。真っ当な太陽から逃げ、ひとりで生きてきた代償だった。
「……君は、優しいよ」
「ええ。……もちろん」
私の言葉は正しく伝わって、彼女もまた正しく頷いた。彼女は決して嘘をつかない人だった。彼女はいつも自信に満ちていた。
明るい夜。間を遮るランタンはないはずなのに、私達の距離はやけに遠い。月明かりの照らす音のない横顔に、私はようやく彼女が落ち込んでいたことに気が付いた。
「……ねえ。あなた、知ってる?」
りら、るるら。
気丈に海を魅せながら、彼女は胸に手を当てる。いつかのように、その口元に三日月を浮かべながら。
「宝石の交換って、物凄く痛いらしいのよ」
強い風が音を攫う。
その夜から、彼女は姿を見せなくなった。
♢♢♢
考える。
なぜ、私は唯一救われる瞬間であった空想を手放したのだろう。眠る前に見る夢が本を読む時間に変わったから。知識が増え、頭の部屋が埋まってしまったから。本当に、それだけだっただろうか。
なぜ本を読むようになったのか。宝石を交換する以外に、胸の宝石を変える方法を知りたかった。私は私の音が嫌いだったから。あるいは、彼女の話についていけるようになりたかった。正直に、その比重はどちらに傾いていたか。
……それならどうして、私は彼女と話していたかったのだろう。彼女と出会った時に感じた、思わず逃げ出してしまうような、腹の底が冷えるような、惨めで寂しい劣等感は消えてしまったのだろうか。私はまだ、私の音をこんなにも憎んでいるのに。
棺に横たわる。染みのついた黒い天井を睨みながら、ただひたすらに考える。
彼女の音だけが特別だったのか。私は所詮、彼女の美しい音色に惹かれた羽虫に過ぎないのだろうか。
あの時、彼女は何を感じていて、私は彼女に何と答えたら良かったのか。どうしたら彼女にあんな顔をさせずに済んだのだろう。本当はあの時、私は何を彼女に伝えたかったのか。
――るらら、ゆう。るる、りりら。
よく知った音色に、誘われるように身を起こす。
ひょっとすると、それは考え過ぎた私の作り出した幻聴、蘇った空想の欠片だったのかもしれない。実際、その一瞬を最後に音は潰えてしまったから。それでも無視をするには惜しかった。
まるで天使の産声のように。その音色は、やっぱり綺麗だったから。
じり、ごとり。がが、ぎちち。
気づけば裸足のまま、私は家を飛び出していた。考えても考えても、ひとつだって答えは見つからない。私と彼女はやっぱり違う生き物で、私は彼女の頭の中が分からない。それでもただ、彼女に会いたいと思った。
空には三日月が浮かんでいる。油断すれば飲み込まれてしまいそうな、深くて不気味な夜だった。
果たして、楡の木の下には誰もいなかった。
荒い呼吸を整え、縋るように耳を澄ませてみる。自分の音に邪魔をさせないよう、なるべく身体を動かさず、工夫を凝らして息をする。
私は昔ほど無知ではなかった。あのひとりぼっちの夜。全てを憎み、泣くことしか出来なかった私の世界に、彼女が現れたから。
――らりら。ゆう、りりら。
ふと、冷たい森の奥。あの音色が響いてくる。まるで導かれるように、私はまた足を動かした。
神聖な森は余所者を歓迎しなかった。一歩踏み出すたび、蔦や石が素足を傷つける。無造作に伸びる枝は容赦なく頬を切りつけた。怒った荊に髪は乱れ、不機嫌な泥濘が行手を阻む。今すぐに帰れと、黒い鳥は金切り声を上げ、私を追い立てた。
切り傷が密かに熱を持つ。冷たい空気が肺を犯す。……それでも構わなかった。
足を動かす。目を瞑りながら、ただひたすらに耳を澄ませて。
前を向く。恥ずかしげもなく、滑稽な音を鳴らしながら。
彼女はどうしてここにいるのだろう。美しい宝石を胸に秘め、彼女は何を想っているのだろう。
滲む血液で服を汚し、朽ちて倒れた大木を跨ぐ。途端、忘れていた月明かりが降り注いだ。頭上を見れば、それまで見えなかった夜空が丸く広がっている。
ぽっかりと、平らな地面が覗いている。鬱蒼とした森の中、まるでそこだけ切り取られたかのように、木々や岩は姿を消していた。
かつて雷でも落ちたのか。あるいは、そこに佇む彼女のためか。
らりら、ゆう。ぎぎ、ごとと。
裸足のまま、枯れた草を踏む。何も分からないまま、私は彼女に辿り着く。
「ねえ!」
間違いなく人生で一番、大きな声だった。途端、背中を覆う金色が小さく揺れる。彼女は躊躇うように、あるいは怯えるように身を固くした。それでもきっと随分前から、彼女は私が近づいてきていることを知っていたはずだった。
怪しげな三日月が私達を見下ろしている。ららと音を響かせ、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
刹那、胸の宝石が凍りつく。
「今晩は。そんなに慌てて、どうしたの」
まるで無邪気な子供みたいに。何でもないように、彼女は笑った。
まっさらなその手に、ありふれた銀色のナイフを携えて。
ぎろ、じろろ。
痛んだ足では音も殺せないまま、私は一歩、彼女に近づく。
よく見れば、彼女はいつものように裸足でそこに立っていた。にもかかわらず、輝くような肌に傷はひとつ見えない。髪がほつれていることも、若草色のワンピースが汚れていることもなかった。笑ってしまうほど、私と彼女は違う生き物だった。
「私は、君のことが好きだよ」
裂けたスカートの裾を握る。正解など分からないまま、考えるよりも先に言葉が落ちていた。そこでようやく、私は答えに出会う。
彼女の音色に惹かれていた。着飾った笑顔も、着飾らない笑顔も、彼女に似合っていると思った。会いに来てくれることが嬉しかった。少し気の抜ける、おどけた話を楽しみにしていた。ころころと変わる表情が可愛らしいと思った。隣でずっと見ていたかった。身だしなみを覚えたのも、本を読むようになったのも、全部彼女のせいだった。
夜が寂しくなくなった。いつの間にか後ろめたさを忘れていた。私は、彼女のことが好きだったから。
たとえ音色を抜きにしたって、私は彼女のことが好きだった。楡の木の下、誰も知らないあの時間は、紛れもなく私の宝物だった。
まるで真夏の海のよう。大きな瞳を瞬かせ、彼女は晴れやかな声を上げた。
「知ってるわ。私も、あなたのことが大好きよ!」
らりるらと。はしゃいだ音色に息を吐く。いかなる時も、彼女は嘘をつかなかった。
まるで魔法のステッキのようにナイフを振りながら、彼女はくるりとその場で回ってみせた。そんな彼女に倣って、音色は流星のように芝の上へ降り注ぐ。
りりら、ゆう。らる、らりら。
スカートの裾が落ち着いて、花びらが散るように、音色もゆっくりと収まっていく。まるで森の精だった。
水面でも歩くように、彼女はそっとこちらへ足を伸ばす。
「ひとり、ひとつ。私達は、特別な音を持っている」
ナイフは下ろしたまま、彼女は片手で自身の胸に触れた。
愛しげなその音を保ったまま、彼女の海は私を映す。
「ねえ。きっと、私だけが特別じゃないのよ」
言葉に迷いのない彼女の言葉に、思わず戸惑ってしまう。彼女は常に自信に満ちていた。
「ひょっとして、私もそうだって言いたいの?」
「ええ。あなたの音だって特別。下を向く必要なんて、これっぽっちもないわ」
彼女の白い肌が、月明かりに反射する。優しく腕を伸ばし、彼女は慈しむように私の胸に手を当てた。素直に温かいと思う。枷のように重たい胸の宝石が、少しだけその身を軽くしたような。
思えば、彼女が私の音を取り立てたことは一度もなかった。褒めることもない代わりに貶すこともしない。きっと、彼女にとってはどれも特別な音だった。だって、彼女は決して嘘をつかなかったから。
「私、嬉しかったの。あなたが、宝石の交換を断ってくれて」
りら、と。不意に手が離れていく。彼女は困ったように目を伏せ、なり損なった笑顔を浮かべている。
「街のみんなは、私の音を欲しがった。みんな、私の音だけを欲しがった」
寂しげに吐息は揺れる。夜を過ごす私は、昼間の彼女を知らなかった。
「それは……君が、あんまりにも綺麗だから」
「ええ……。分かっているわ。だって、私は私を愛しているもの」
確かめるように、あるいは呪文でも唱えるように。彼女は背筋を伸ばしたたま、また自分の胸に手を当てた。
頭の中、古くなった空想の引き出しを開けてみる。彼女はこれまで、どんな気持ちで昼の街を歩いていたのか。彼女がどんな夜を越えてきたのか。
どれだけ考えようが、自分の音が嫌いな私には、彼女の気持ちは分からない。ただ、彼女が彼女を愛した理由だけは想像できた。
周りの誰よりも美しい音色だったから。神様に愛された、特別な音色だったから。……そうではない。彼女は特別であり、特別ではなかった。きっとみんな、同じ。
その身を輝かせたのは彼女自身だった。彼女はただ、自分の音色に誇りを持っていただけだった。
「……あなたのことだって、きちんと分かっているつもりなの」
真空のような夜の中、彼女は深い海をこちらに向けた。
「あなたは確かに私の音に惹かれた。……だけど、それだけじゃない。きっとあなたは、私のことを見てくれた」
るら、りりら。
まるで、悲しみに溺れたような。あどけない二つの瞳から、大粒の涙が流れ出す。
「だから、あなたのことを疑いたくない。あなたのことを酷い人だと思って……自分を、嫌いになりたくないの」
両手で持ち直したナイフの切先を空に向け、彼女は一歩、後ろに下がる。桃色の花弁のように涙を散らしながら、彼女は少し、笑っていた。
自身の強い音色に当てられ、彼女は酷く絡まっているように思えた。きっと彼女は誰のことも憎んでいなかった。彼女の世界に悪人は居ないようだった。だからこそ、彼女はずっとひとりでいた。
「私は、どうすれば君を救えるかな」
右腕、ひりつく切り傷を抑えながら、私は奥の歯を噛み締める。その問いかけは祈りに似ていた。
彼女の孤独を理解することは出来た。けれど、それは自身を愛する者の孤独だ。いくら本を読んだとしても、たとえ昼間に出歩いたとしても、私には到達できない領域の話だった。私と彼女は、まるきり違う生き物だったから。
半端な手出しは余計に彼女を傷つけると、私は身を持って知っていた。
「この宝石を、あなたにさらけ出すことが出来たなら、あるいは、私は生きていられたのかもしれない。……だって、ねえ。私、こんなにも寂しいの」
ナイフを聖剣のように握りしめ、彼女は小さく震えていた。力の入りすぎた白い指が、痛々しい赤色に染まっていく。
完璧だと思っていた、美しい音色に恵まれた彼女は、それでもあの暗いあぜ道を知っていた。夜の寂しさを知っていた。
「――だけど、私は宝石を手放せやしないわ」
るりら、ゆう。
透き通った青い水面が、銀色の切先を捉える。
今、私の目の前で、彼女は穏やかな絶望に濡れている。こんな時まで綺麗な音を奏でながら。
「たとえ、このまま寂しさに殺されてしまっても。だって、私は私を愛しているから」
ゆっくりと、ナイフの先が彼女の胸を、その先の宝石を見据える。
彼女の音色が好きだった。彼女の笑顔が好きだった。私は彼女が好きだった。――だからこそ、動くことは出来ない。恐怖に引き攣ると同時に、彼女は確かに安堵していたから。
彼女は彼女を愛していた。
それ故に大切に大切に輝きを仕舞って、このままじゃ腐ってしまうから。
「私は私を守るために、この道を選ぶのよ」
ゆう、るらら。
最期の音を奏でながら、彼女はその胸にナイフを突き立てた。刹那、パキンと。氷柱の割れるような音が響く。
まるで自分を抱きしめるように、彼女はその場に頽れた。その身が地面に触れる瞬間、森は無音に包まれる。彼女は世界から見放されたようにも、解放されたようにも見えた。最後まで立ちすくんだまま、私は決して目を逸さずにいた。
まるで興味を失ったように、風は彼女の髪を乱暴に攫っていく。三日月はじっと夜空に浮かんだまま、表情ひとつ変えやしなかった。
ぎぎ、じりり。
ぎこちない音を立てながら、私は彼女に近づいていく。不思議と涙は出なかった。私は彼女のように賢くなかったし、彼女のような本能的な優しさも持ち合わせていなかった。
動かない。白い遺体を仰向けに寝かせる。ナイフは胸に突き刺さったまま、若草色のワンピースに赤を滲ませていた。
少し躊躇った後、乱れてしまった彼女の髪を掻き分けて、端正なその顔を覗き込む。初めて触った彼女の髪はやわらかく、少しひんやりとしていた。
「……ねえ」
ぎり、がたん。どうしようもなく、音を鳴らす。薄い瞼はぴくりともしないまま、彼女の音色が帰ってくることはない。
長い睫毛の下で、海は静かに枯れてしまった。もう二度と、私のことを映さない。
ひとりぼっちの森の中、ともすれば騒がしさを感じてしまうほど、頭の中は恐ろしく静かなままでいた。
きっと、私は悲しんでいたのだろう。何も出来なかったことが虚しくもあった。少しだけ、彼女に怒ってもいた。
だって、我儘な話だ。自分の宝石を手放せないけれど、愛が欲しいだなんて。彼女の死は決して美談ではなかった。しかし同時に、酷く誠実な選択のようにも思えた。
彼女は何を選ぶべきで、私はどうすればよかったのか。私にはいつだって正解が分からない。……ただ、ひとり。寂しいと思う。
彼女がいなければ、私があの楡の木の下に集うことはなかった。私は本を読まなかったし、宝石のことを知らずにいた。たとえ私の音色がこうじゃなくても、きっと彼女は私の隣に居てくれただろう。
私との不協和音を気にせず、彼女はいつもそばにいてくれた。――それが、私達の全てだった。
まるで月明かりに導かれるように、私は彼女の胸からナイフを引き抜いた。
途端、濁った音と共に、赤い泥濘が広がっていく。それでもなお煌々と光るナイフの切先に、ひとつ、呼吸を落としてみる。
私はずっと、違う音になりたいと願っていたはずだった。もしもこんな錆びついた音じゃなく、いっとう綺麗な音を奏でられたなら、私はどれほど幸せだろうと。それでも今、彼女の清い遺体を前に、それは浅瀬の願いだったことに気がついた。
私は新しい音色が、新しい宝石が欲しかったんじゃない。誰かと交換したかったわけでも、私の音を誰かに奏でて欲しかったわけでもない。ひょっとすると最初から、私は私の音を嫌ってなどいなかったのかもしれない。
見て欲しい。知って欲しい。お願いだから、どうか私の音を聴いていて!
――きっと私は自分の宝石を、誰かの胸に受け止めて欲しかった。私は誰かに、私の音を赦して欲しかった。……ひょっとして、あなたもそうだったのだろうか。
震えるナイフの切先を、自分の胸に当ててみる。
私とあなたが交わることは、ついに叶わなかった。私もあなたも、自分を愛することで精いっぱいだった。それは良いことでも悪いことでもない。だって誰かを愛することは、とてつもなく痛くて、怖いことだから。
宝石の交換は、愛の証。互いを愛した者同士の、気の狂った行為。
今なら私にも、その気持ちが分かる気がした。
――ごと、じりん。
不恰好な音を響かせて、私は胸にナイフを突き立てる。
途端に、全身からぶわりと汗が吹き出す。しかし構っている暇はない。まだ見ぬ宝石を傷つけないよう、慎重にナイフを下に引いていく。震える手は上手く言うことを聞かず、ぶちぶちと、悪戯に肉の裂ける音が鼓膜を揺らした。燃えるような激痛に、血を吐きながら必死で意識を保った。
ここで気を失うわけにはいかない。私には知識があった。彼女に教わらずとも、私は宝石の交換方法を知っていた。
眩む視界。ナイフを捨て、赤に塗れた彼女を見下ろす。
朦朧とした意識の中、それでも一瞬躊躇って、ぽっかり空いた彼女の胸の穴に手を入れた。同時に左手を自分の胸に突っ込む。
ぎり、じりり、ごが、ぎぎり。にちゃ、ぐつり。
酷く醜い音を遠くで聞きながら、右手でまだ温かい彼女の肉片を掻き分ける。その赤黒い内側は、まっさらで美しい彼女のものとは思えなかった。
見たかったと思う。本当は綺麗じゃないところも、もっと。出来ることなら私も、見せたかったと思う。
永遠にも思えた時の中、ようやく固いものに指がぶつかった。崩れないよう、慎重に赤い海から掬い出す。同じように、私の宝石も胸の中から引き抜いた。
ころりと。白く飛びそうな意識の中、ふたつの宝石が手のひらに転がる。
何となく、笑えてしまう。赤黒く塗れた歪な小石。どちらも灰色に燻みながら、少しだけ透き通っている。正反対だと思っていた私達の宝石は、案外似たような色をしていた。
少し安心したと言ったら、あなたは怒るだろうか。それとも、一緒に笑ってくれるだろうか。
双子のような石の片割れ、小さくひびの入った方を私の胸に、もう片方を彼女の胸に埋める。そのまま傷口を塞ぐようにそれぞれの胸に手を当て、冷たくなった瞼を閉じた。
成功するかは半々だった。宝石の交換は生者のもの。死者と宝石を交換する方法なんて、どこにも書いていなかったから。死ぬつもりはなかったけれど、このまま赤い泥濘で朽ちるなら、私はそれでも構わなかった。
地球が形を変えたように、ゆっくりと周りの世界が歪んでいく。自分がどんな体勢でいるのか、もはや分からなかった。……それでも、どうやら運は私に味方したらしい。
どれほど時間が経っただろう。
ふと、呼吸が楽になっていることに気がつき、静かに目を開ける。私の胸の傷はいつの間にか塞がっていた。当てたままだった手のひらに血流の気配を感じ、小さく息をつく。同時に、右手がまだ冷えた肉の中にあることに気がついた。
宝石は、どうやら生きている肉体にしか順応しないらしい。私の宝石を曝け出したまま、彼女は冷たく目を閉じていた。
驚きはしなかった。嘆く気持ちもない。むしろ手違いで蘇っていたら、彼女は怒ってしまっただろうから。彼女の宝石を胸に秘めたのは、私の最期の我儘だった。
両手の赤を払いつつ、ゆっくりと立ち上がる。森は沈黙を保ったまま、あの耳障りな音は聞こえなかった。死んだ宝石は、もう音を鳴らしてはくれないらしい。何もかもから解放されたような気にも、何かを失ったような気にもなった。多分、両方正しい感覚だった。
全てを一掃するように、風が強く吹き抜ける。烏の鳴き声に耳を澄ませつつ、私は芝に眠る彼女と、受け入れられなかった自分の宝石に目をやった。
ひとり、ひとつ。
生まれつき、私達は宝石を持っていた。他にふたつとない、特別な音色を持っていた。
清々しい寂しさの中、一歩、また一歩。ぼろぼろの素足で楡の木を目指す。
胸の宝石は、冷たく沈黙を保っている。この先に続く音のない道を、三日月がじっと見つめていた。