読みものそうこ

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Leben

「父さん。私、死にたい」

 宵闇。一等冷たい、氷のような夜の入り口で、私はついに悲願を口にした。
 薪が黒く喰われていく。背の高い洞穴の中、隙間風に炎が戦慄き、息をするように私達の影が揺れた。粗雑な土壁に刻まれた傷は、ここを住処にしてから半年と三日が過ぎたことを指している。外は相変わらず真っ白なまま、牙を剥いた吹雪が麻布を破ろうと手を伸ばしていた。
 指を汚すあかぎれを握る。もう長い間、冬は明けていない。

 長すぎる沈黙に顔を上げる。すっかり黒ずんだ帽子の下、ステンレス製のマグを手にしたまま、父は黙って私を見つめていた。晴れた朝の湖のような、あるいは物言わぬ鏡のような。遠く、生まれた時から知っている深い銀色の眼に、自分が緊張していることを知る。

「死にたい」

 目を逸らさないまま唱えた私に、父は一度瞬きを落とした。厚みのある胸が膨らみ、徐々に肩が下がっていく。獣の毛皮を纏っているせいか、ただでさえ上背のある父の体はいつもより大きく見える。

「そうか」

 ぱちぱちと、薪が断末魔を上げている。石の上に木の板を敷いただけの簡素なテーブルへマグを置き、父はようやく私から目を離した。そのまま少し身を捩り、後ろの壁へと視線を投げる。
 窪みだらけの洞穴の壁、打ちっぱなしの釘にぶらさがった古い首飾り。白い鉱石と狼の牙を繋ぎ合わせたそれは雪の女神様の装飾品だった。私達は毎日二回、かかさず彼女に祈りを捧げる。鋭利な純白に塗れたこの地を、女神様は何千年もの間見守っていた。

 父はおもむろに腰を上げた。洞穴の中、大きく揺れた影に思わず肩を震わせる。叱られるかもしれないと思った。たとえどれほど切実であったとしても、私の願いが命を与えて下さった女神様への冒涜であること、何より親不孝であることには変わりない。
 しかし私の予想に反し、父はこちらに背を向けた。そのまま固い地面に膝をつき、夕食を準備していた時と同じ姿勢で古びたリュックを漁り始める。私は何かを話す気力もなく、汚れた毛皮のマントを手繰り寄せながら衣擦れの音を聞いていた。

 父は銀時計のような人だった。
 白い日の出と共に目を覚まし、神様に祈りを捧げる。薄いスープを飲んだ後、日中は狩りに出て、闇の射すほんのひと足先に洞穴へと戻ってくる。それから汚れた服を洗い、朝と同じスープを飲み、再び神様への祈りを捧げ、藁の寝床へ体を横たえる。
 こちらから話しかけない限り、父が発するのはおはようとお休みのふた言だけだった。そのせいで私はいつも父の声を思い出すのに時間を要した。冷たい人だと思ったことはないが、生まれてから十四年、私は父が笑ったところや泣いたところ、声を荒げたところを一度たりとも見たことがなかった。数年前、飢えと寒さに耐えきれなかった母さんが息を引き取った時ですら、父は涙ひとつ見せなかった。

「レーヴェン」

 孤独な大樹のような、低く掠れた声に名前を呼ばれる。顔を上げると、いつの間にか父が目の前に立っていた。
 私が何か言う前に、父は筋張った固い右手で白いレースの布を私に差し出した。少し考えて、それが母の形見のドレスであることに気がつく。

「着てきなさい」

 ドレスを受け取った私を見届け、父は静かに席へと座り直した。そのまま入り口の麻布を見つめて動かなくなった父を眺め、私は洞穴の奥へと少し進んだ。父の言動を疑問には思えど、それをぶつけられるだけの力は残っていなかった。
 マントを肩から外し、アティギを脱ぐ。まだカリブーを見つけられていた頃、狩った命で父が仕立ててくれたものだった。麻布の肌着だけになり、寒さに急かされるまま受け取ったドレスを広げてみる。
 少し光沢のある、雪のような白い色。袖口と裾の方だけがふわりと広がった、首元の詰まったドレスだった。フリルこそなかったが、代わりに明るい花の刺繍とめいっぱいの白いレースがあしらわれている。洞穴の暗がりの中でも、その純白は誇らしげに輝いていた。

 ゆっくりと、冷たい布に腕を通していく。くすぐったくゆらめく袖口に、私の頭を撫でてくれた母さんの手を思い出す。
 女神様の生まれた日、それから私の誕生日。その日がいくら寒かろうと母さんは年に二回、必ずこのドレスを身に纏った。寒いねと、まるで雪を照らす木漏れ日のようなその姿で、母さんは身を縮こませながら嬉しそうに笑っていた。
 指先に赤い血が滲んでいる。悴んだ手で胸元の大きなリボンを結び、最後、自分の体を見下ろして笑いたくなった。
 まったく、母さんとは似ても似つかない。本来なら体の線に馴染むはずのそのドレスは、まだ私には大きすぎた。袖も裾も不恰好に余ったまま、転ばないよう父へ近づく。

「父さん」

 肩を叩くと、父は振り返って私をまじまじと眺めた。
 薪を食べた炎が踊る。少し考えた後、父はリュックから大きな鋏を取り出し、私の前で跪いた。

「動かないでくれ」

 たったひと言。小さく呟いた後、父は迷わずドレスに鋏を入れた。
 ざきざきと無情な音が洞穴に響く。父はドレスを手繰り寄せながら、ちょうど私の足首の長さになるようにドレスの裾を切り落としていく。続いて袖のフレアに手をかけ、そこも半分ほど切ってしまった。父が鋏を動かす度、つい先程まで美しいドレスだったものがただの布切れへと変わっていく。私は言われた通り体を動かさないまま、足元に横たわるドレスの亡骸をじっと見つめていた。

 ドレスがぴったりの長さになると、父は私が適当に結んだ胸元のリボンを整え直し、腰掛けに私を座らせた。
 大きくなった炎が嘲笑うように私の頬を照らしている。洞穴の入り口、薄い麻布から透けて見える鋭利な吹雪を眺めていると、不意にやさしく髪を引かれる。
 厚い皮膚が耳に触れる。乾燥した私の髪を、無骨な父の手が所在なさげに撫でていた。麻紐で結おうとしたようだが、上手くいかなかったらしい。父はしばらく髪を触った後、小さく溜息を吐いて私の髪に櫛を通した。どうやら支度は整ったようだった。

 父はドレスの上から私にアノガジェを着せた。そのままリュックに寝床の藁と首飾りを詰め、自分も外套を羽織って立ち上がる。
 最後、ばらばらになったドレスの切れ端を火に焚べ、父は振り返った。

「行こうか」

 苛立つ炎に背を向ける。父の背中を追いながら、外へ続く薄い麻布へと手を伸ばした。
 きっと、洞穴から出てくる私達を待ち詫びていたのだろう。ひゅるりと甲高い笑い声が響き、喜びに打ち震えた吹雪は荒れ狂うまま私達の体を撃った。酷い雪の日、父は私と母さんをなるべく外へ出そうとしなかった。
 一歩、一歩と足が雪に沈む。凍てついた空気はあっという間に血液を巡り、私の体を乗っ取ってしまう。冬に犯された肺は冷たく、息をする度にひび割れるような痛みが心臓を貫いた。吹雪に踊らされ、父の持つカンテラが音を立てる。ただでさえ視界の悪い夜の闇。睫毛にかかる雪を振り落としながら、私は睨みつけるように父の背中を追っている。この世界ではぐれることは死を意味した。
 容赦なくぶつけられる白い礫に、命が削られていく。寒さは孤独とよく似ていた。

 これまで、決定的な何かがあったわけではなかったと思う。
 ずっと白い景色を見ていた。暗いヴェールを纏う朝、父を待つ夕刻。ある時は苛立つように麻布を叩き、ある時は木の上から目を光らせ、図々しく地面に蔓延って。甲高い歌声とその体温で私達を脅かす白の強大な力に、それでも恐怖を感じたことはなかった。もう何年も前のことにはなるが、珍しく晴れた朝、陽の光を反射して輝く白い雪を綺麗だと思ったことすらある。白い悪魔の存在は私達にとって疑う余地もないほど当たり前のことで、だからこそ女神様が胸にいた。
 洞穴の壁。静かに炎を照り返す、白い首飾りを思い出す。私達が祈り続ける限り、神様は確かにそこに居た。それでも彼女はいつだって私達を見ているだけだった。
 寒さは生き物の生を奪っていく。白い泥濘の中、何日も新しい食料が見つからず、荷物引きのトナカイが死んだ。そのうちカリブーの群れを見かけなくなり、肉が獲れなくなった。やがて食料が底を尽いた。吹雪が止まなくなった。気温は下がり、母さんが死んだ。空はもう何年も濁ったままで、世界から白が消えることはなかった。
 晴れた日の思い出、新鮮な肉の味、母さんの胸の温かさ。私を生かしていたもの達がだんだんと雪に浸透していく。気づけば私の行く末はすっかり白く染まっていた。はっきりとしない頭。ぼんやりとした空腹で、生きることは奪われることなのだと悟る。女神様は無責任にも命だけを私に与えた。何日も何日も雪を耐え続ける私達を、彼女は見ているだけだった。
 白い悪魔——あるいは白い神様は、私の背に圧し掛かる。私を羽交い締めにしたまま守るように見せかけて、彼女はじわじわとその体を膨らませていく。ついに私の何倍もの大きさに膨れた彼女が重くてたまらなくて、私は動けなくなる。肺が潰れたせいで血液が滞り、上手く頭が回らない。そのうち彼女を支えることしか考えられなくなって、支える意味すら分からなくなってくる。早く下ろして眠りたいと、いつしかそれだけを願うようになる。それが生きるということだった。

 一等強い風が頬を切り、父の持つカンテラが大きく揺れる。浮かび上がった地面の白は灰をかぶったような色をしていた。しつこくまとわりついてくるそれを振り払うように一歩、また一歩と闇を行く。時折躓きそうになる私とは違い、父は同じリズムで歩みを進めていた。一切迷いのないその足取りはどこかを目指しているようにも、出鱈目に死に場所を探しているようにも見える。どちらだって良かった。
 今日、父に願いを溢したのは耐えられなくなったからじゃない。私はもう長い間、ずっと分からずにいた。

 それから、どのくらい歩いただろう。
 白い礫をマントで受けつつ、不意に父は足を止めた。数秒遅れて隣に立ち、同じように立ち止まる。父は私を一瞥し、ゆっくりとカンテラを掲げた。途端、ちかと何かが灯りを反射する。それが何か分からないまま、吹雪に邪魔される視界で必死に目を凝らした。
 顔の前に手を翳し、打ち付ける雪を遮る。三度目の瞬きの後、ようやく数メートル先にあるその光景を理解し、あっと声を漏らす。

 佇んでいたのは、巨大な氷だった。
 余計な装飾は一切ない。柱や屋根、壁や床までもが磨き抜かれた氷で出来ている、二メートルほどの高さの立方体。どういうわけか継ぎ目のひとつも見当たらないその建造物には、正面の壁だけが造られていなかった。にも関わらず、中に雪が積もっている様子はない。よく見れば吹雪が壁を打つ度、氷は瞬時にその白を抜き取って透明に変えてしまっていた。
 ぼんやりと、カンテラの灯りが氷の中で反射する。拠点を移る際、何度か見かけたことがあった。城と呼ぶには味気なく、小屋と呼ぶには異様な冷たい聖所。もしこの場所を見かけたら、私達は必ず膝をついて祈らなければならない。ここは私達を見守る女神様が立ち寄り、羽を休めるための場所だった。

「ここでいいか」

 父は相変わらず余計なことを言わなかった。それでも意図を正しく汲み取り、私は頷く。
 父はブーツを脱ぎ、聖所へ足を踏み入れた。同じようにブーツを揃え、私も後に続く。
 一歩、中に入った途端、鋭い風の音が止んだ。氷の床、濡れたような冷たさが靴下を隔て、足の裏に伝わる。カンテラの灯りは四角く反響し、まるで洞穴の炎のようにこの場所を照らしていた。だからだろうか。吹雪が遮られたとはいえ氷で出来ているこの場所に、温かさを覚えてしまう。
 父が部屋の端でリュックを下ろしている間、私は中央に鎮座する神様を、正確には彼女を模した氷の彫刻を見上げていた。
 彼女には両腕と首がない。その上、裾の広がった長いドレスを見に纏っているせいで足も確認できない。本来頭がある場所にはヘラジカの角が一対、根元から氷漬けになって立て掛けられており、一等目を惹く長い首には見慣れた首飾りがあしらわれていた。

 手を合わせることも、頭を下げることもない。女神様の前で突っ立っているだけの私を父は咎めなかった。それどころか父はリュックから藁を取り出し、氷の床に敷き始めた。私は少し戸惑い、邪魔をしないよう彫刻から少し距離を取る。
 本来、ここは神様が休むための神聖な場所だ。この氷は全て女神様のためのもので、私達は祈る時でさえ足を踏み入れることを許されていない。そんな場所にあろうことか自分達の寝床の藁を敷くなど、罰当たりもいいところだった。
 私は別に、何だっていい。責めるつもりもないが、過度に奉るほど神様に感謝しているわけでもなかったから。けれど父は違う。幼い頃、礼拝を忘れて何度も窘められたことを覚えている。首飾りに首を垂れ、毎日欠かさず祈りを捧げる父を見てきた。父には信仰心があったはずだった。

 リュックが空になると父は外套を脱ぎ、そっと藁の上に寝かせた。促すような視線を向けられ、私も同じようにマントとアノガジェを脱いで藁の上に敷く。少し考えてから靴下も脱ぎ、外のブーツの中へしまってしまう。ドレス一枚になる時、母はいつも素足でいた。

 やわい藁が足の裏に刺さる。隙間から上ってくる冷気は足の裏を焼き、さっそく私の体温に手を伸ばしていた。
 父は彫刻の前、衣服の重なった場所へと私の手を引いた。導かれるまま、私は大人しくその場へ座り込む。
 私の手を取ったまま、父はしばらくこちらを見下ろしていた。よく見れば口髭の下で唇は結ばれ、太い眉も軽く顰められている。やがて何か考えが纏まったのか、父は小さく頷き、私の手を離した。

「横になって……少し、待っていなさい」

 父はひと言そう残し、大きな背中をこちらへ向けた。そのままブーツを履き、アティギだけの心許ない姿で外へと歩き出してしまう。少し躊躇った後、私はやはり言われた通り毛皮の上で横になる。
 部屋の隅に置かれたカンテラが、そぞろに聖所を照らしている。氷の天井には灯りが宿り、内側の結晶が透けていた。細く張り巡らされたそれは血管のようにも見える。少し横に視線を下げれば背を正す彫刻が目に入った。父が出払った今、私はこの場所に神様と二人きりでいた。
 無機質な立方体とは違い、氷で出来た彼女のドレスには細かい花柄とレースの柄が刻まれている。頭の隣でやわらかく広がる冷たい裾に、初めて自分が彼女と同じ格好をしていることに気がついた。

 吹雪の音がやけに遠い。静寂にも似た冷たさがしんしんと手を伸ばして体の端に触れてくる。背中の藁や毛皮だって気休めにしかならない。いくら凶暴な雪が遮られていようと、この場所は寒かった。
 天井を見つめ、凍える肺で息を吐く。氷に囲まれていなくとも、火のない場所でこれだけの薄着でいればおそらく数時間も持たないだろう。
 ひくりと、右の人差し指が痙攣する。失われていく温度に、冷たくなった母さんの手を思い出した。突っ張った、布のような手触り。父は誠実なまでに私の願いを叶えようとしていた。

 ふと、天井に大きな影が伸びる。入口の方へ首を傾ければ、父がブーツを脱ぎ、こちらへ近づいてくるところだった。

「何をしてたの」

 体は動かさないまま、思わず縋るような声が出た。そこで自分が不安に思っていたことを知る。いくら頭で死を願っていたとしても、本能的な恐怖は消えてくれなかった。
 父は帽子を脱ぎながら、小さく目を伏せる。

「……花でも、咲いていればと思った」

 顔色を変えず囁いた父に、一度、瞬きを落とす。
 父はそれ以上何もわず、おもむろに私の隣へ横たわった。仰向けに寝転んでいる私に対し、父は左腕を枕にしてこちらを向いた。それからゆっくりと空いた右手が伸ばされ、大きな影が私の顔を覆う。微動だにしない私に対し、父は割れ物でも触るように黒い髪を撫でた。流れるように頬をなぞり、最後に私の左手を握る。雪を掻き分けていたのか、父の手は冷たく濡れていた。
 深い銀色。鏡のような双眼は私を映し、やさしく細まる。
 レーヴェン、と。父の声が名前を呼んだ。

「お休み」

 まるで、遠い地の大樹のような。凪いだ音は消え、厚い瞼に銀色は隠れてしまう。とん、とんと、赤子をあやすように手のひらを叩かれ、私はゆっくりと天井を見上げて目を閉じる。

 音のない空気が鼻を触る。呼吸をする度、毒のような冷気が体を巡っていくのが分かった。雪はいつも薬草のような匂いを纏っていた。此処はもっと澄んでいて、水の匂いが近い。凍てつく心臓にかたかたと歯が鳴った。氷の壁のせいか、それとも禁忌を犯しているからか、想定よりも早く体は冷えていく。
 寒さは思考を奪っていく。気づけば頭の中にはどんよりとした眠気のような靄が充満していた。僅かに動くのは理性の取り払われた浅い部分で、つたない気持ちだけが巡っていく。

 どうでもいいこと、あるいはとても重要なこと。私のこと。まるで、夢を見る前のまどろみのような。

 白の上、横たわる長い黒髪が見える。思い出すのは母さんのことだった。
 洞穴の中、私の頬を撫でながら息を引き取った母さんを、父は大木の根元に横たえた。雪を掘り進めただけの白い棺。自らの命を奪った凶悪な白の中で、母さんはひとり安らかな顔をしていた。まるで遠い昔、初めて花を一緒に見たあの晴れの日のように、死の間際、母さんは笑ったのだ。私はもう髪を撫でてもらえないこと、母さんの歌を聴けないことが悲しくて堪らなかったのに。
 分からなかった。置いて行かれたような、見放されたような。それが酷く寂しくて、私はわけも分からず泣いていた。母さんは神様の元に還った、神様が迎え入れてくれたのだと、父は私を抱きしめた。
 母さんを雪で覆った後、あの首飾りを手に父は祈った。同じように私も祈った。そこから拠点を移す時、もう母さんには二度と逢えないのだと理解して、私はもう一度小さく泣いた。

 とん、とん、と。父はまだ私の手をあやしている。
 もう体は震えていなかった。血液や内臓、体はこれ以上ないほど冷え切っているはずなのに、内側に炎が灯ったような感覚があったから。洞穴の炎よりもやさしい、浮かされるような温かさ。何だか少し、嬉しくなる。
 手探りで記憶を辿れば、幼い頃、熱を出した夜に行き着いた。父が取ってきてくれた木の蜜を、母さんがお湯に溶かしてくれた。体は苦しいのに、温かくて甘くて。まるで揺籠の中にいるような、いつまでも浸っていたい幸福感。

 どんどん言うことを聞かなくなっていく体とは裏腹に、口の端は緩んでいる。気づけば白一色だった私の世界は、いつか見た花のような小さな黄色に塗り変えられていた。

 悴んだ瞼を震わせ、目を開ける。依然として背筋を正したまま、神様は私を見ていた。悠々としたヘラジカの角は翼のようにも見える。
 心地が良かった。寒さを感じられなくなったことも、空腹を感じられなくなったことも。生きている時の不確かさと今感じている不確かさはまったく種類が違う。奪われるものがないということは、満たされていることと同じだった。死の淵に立ち、私は生まれて初めて全てを手にしていた。
 翼を持つ、白い神様はどこへだって飛び立てる。私はもはや彼女を背負う必要はなかった。彼女を下ろしていいのだと、もう死んでいいのだと分かって、私は心の底からほっとした。

 薄い瞬き。目尻に溜まった水分が耳の方へと伝っていく。あの時笑った母さんも、私と同じ気持ちだったのだろうか。酷く安らかな時間。穏やかな氷の壁の中で、私はついに死というものを悟った。

 自然と瞼が重くなる。これが最期だと直感し、カンテラの明かりをそっと見つめる。
 緑の草原。小さくて黄色い、かわいらしい花々が私を誘っている。軽くなった背中。温かな流れに身を任せ、神様に別れを告げた。——刹那。

 つんと、後ろ髪を引かれるような感覚。はっと目を開け、ゆっくりと視線だけで横を見る。
 かさついた冷たい指。四角い爪の人差し指が、私の目の端を優しく掬う。隣の父はこちらを向いたまま、そっと私の涙を拭っていた。
 無論、その塩水に意味はなかった。私は悲しくて泣いていたわけではなく、死ぬことが怖くて泣いたわけでもない。ただ、空気が冷たいから眼球が乾いてしまった。本当にそれだけだったのに。
 心配する必要はない、だからそんな顔をしないで欲しい。そう伝えようとするも、舌はすでに言うことを聞かなくなっていた。そんな私をどう思ったのか、父は濡れた手で私の左手を緩く握りしめる。
 私と同じ寒さに晒される、父の手は冷たかった。なのに温度のない熱が手のひらから伝わって、凍り付いた頭の芯が溶けていく。

 父さんは、どうして私を止めなかったのだろう。
 どうして、私にこのドレスを着せたのだろうと思う。あの時、どうして躊躇なく母さんの形見を切ってしまえたのだろう。この場所を最期に選んだのはなぜなのか。どうせ死ぬのに床へ藁を敷いてくれたのは、花を手向けようとしてくれたのはなぜだろう。花なんて咲いているはずがない、もう何年も吹雪は止んでいないのに。
 父さんは私を間引きたかったのだろうか。あるいは死を体験させ、生の道に連れ戻したかったのだろうか。だとすれば、どうして私はこんなに満たされているのだろう。凛と佇む瞳の銀色が、こんなにも寂しそうに見えるのは。

 ゆらゆらと、煌めく霧が揺らいでいく。重荷を下ろせることだけじゃない、最期の幸福には理由があった。
 つたない力。幼い頃にいつもそうしていたように、父さんの手をやわく握り返す。
 弓のせいで硬くなった皮膚。黒髪に触ってくれた。私を咎めなかった。受け止めてくれた。涙を拭ってくれた。生まれた時から知っている、不器用で大きなやさしい手。記憶の中、その手が白く細い別の手を握る。
 思い出す。最期、母さんが笑ったあの時。私達は母さんの手を握っていた。
 
「父さん」

 先に、喉が震えた。
 軋んだ体に力を込め、ゆっくり身を起こす。凍った睫毛で一度瞬きを落とせば、夢の霧はあっけなく消えてしまった。残ったのは透明なこの場所と、寒さに似た痛みだけ。どうしようもなく泣きたくなる。
 まだ、ずっと揺蕩っていたい。黄色い花を愛でていたい。重力ばかりを感じてしまう、こんな体は邪魔なだけだ。
 
 導かれるように天を仰ぐ。大きく翼を広げたまま、神様は私を見ていた。また、戻らなければならないのだろうか。白い世界で私はまた、あなたを背負って生きなければならないのだろうか。
 難しい。どうしても、私には生きるということが分からない。ただ、ひとつ。死の淵に立って、ひとつだけ理解できたことがあるとするのなら。

「やっぱり、帰る」

 私は愛されていた。死を赦されるほどに。
 
 傷だらけの右手で拳を作る。澄み切った静寂の後、父はゆっくりと身を起こした。気づけば私は俯いてしまっている。
 呆れられるだろうか。私のせいで無駄な体力を使ったのだ。ひょっとすると今度こそ叱られるかもしれない。……いや。頭に過っただけで、どこかでは分かっていた。きっと父は私の我儘を受け入れてくれるだろうと。

「そうか」

 顔を上げる。
 案の定、父は表情を変えないままでいた。その見慣れた深い銀色には私を責めるような色も安堵の色も宿っておらず、酷く安心した。もしそこに何かが見えていたら、私は今度こそ眠っていただろうから。

 それから父は当たり前のように周りの藁を集め始めた。私も靴下を履き、上手く動かない体でそれを手伝う。最後、氷の床に何も残っていないことを確認し、アノガジェとマントを羽織ってブーツを履く。

 聖所を抜け出すと、外はまだ白に支配されていた。
 ひと回り大きくなった白い礫。ひゅうるりと笑う吹雪に晒され思わず目を細める。死のうとした、もしくは死に切れなかった愚かな私への罰なのか、吹雪は来た時よりも格段に強くなっていた。カンテラの灯りもほとんど意味を成していない。マントを顔の前に翳し、辛うじて視界を守る。本当に帰れるのかと、焦りが胸を焼く。
 しかし、父は動じていなかった。よく見れば、いつの間にかその手には太いロープが握られている。力強く手繰り寄せれば、ロープはピンと張ってひとつの方角を示してくれた。来る時には気が付かなかったが、どうやらあの洞穴から括り付けてきたらしい。

「行こう」

 父の言葉に短く頷き、一歩、白い泥濘を踏み締める。
 雪はあっという間にこの身を覆った。目の前の大きな背中をひたすらに見つめながら、ふと、私が死んだ後、父はどうするつもりだったのだろうと考える。父もあそこで死ぬつもりだったのだろうか。もしくは私の亡骸を洞穴に連れて帰ろうとしていたのかもしれない。だってあそこは私ではなく、神様が休むための場所だから。
 
 激しい雪の狭間、濃かったはずの闇が白んでいることに気が付く。大きく息を吸うと、泣き出す寸前のように肺の下が戦慄いた。寒さに強張った背中は重く、やはり神様は私を見ていた。だから私も見つめ返す。
 生きることは奪われることだ。奪われることは腹立たしく、恐ろしい。白に塗れて息をする、その意味を私はまだ分からずにいる。
 薄暗い夜明け。白い波に攫われて、二人分の足跡が残っては消えていく。父が祈りを捧げない初めての朝に、私は神様を見ていた。

宝石を抱く者

 生まれつき、私達は宝石を持っていた。

 目覚めた時のことを、よく覚えている。
 きっとあれは夜中だった。目を開けているのかどうかも分からないような暗闇で、私はしばらく天井を眺めていた。風の通らない、鈍くくすんだ匂い。部屋は埃とカビにまみれていた。身をよじればピリと頭が痛む。細かくうねった髪がささくれた木の壁に絡まっている。眠る身体をかたどるように、その棺は私と共に在った。
 指を動かし、絡まった髪を解く。つま先を逸らすとざらついた感触が指の裏にくっついた。息を吸うと胸が動く。口から吐いた空気が温かい。呼応するそれらが自分の体であることを知り、ここが窮屈だと思った。
 腕に力を入れ、重い胸を支えて起き上がる。冷たい澱にくしゃみを落として、私は初めて音を鳴らした。

 

『ひとり、ひとつ。私達は、特別な音を持っている』

 
 ぎぎ、ちろん。じり、ごとん。
 錆びついた月の下、ぬるい温度が肌を撫でる。誰もが眠る、野ざらしの世界。取り留めもない道を歩けば、小さく音が付いてきた。
 私達は胸の中に宝石を仕舞いこんでいるらしい。一歩、踏み出した振動が体の内側に伝わって、宝石へと手を伸ばす。刺激を受けた胸の石は、お返しにその身を震わせる。そうして帰ってきた振動が、私の音になるらしい。
 ひとり、ひとつ。どの宝石も律儀に返事をするものだから、街はいつも音で溢れていた。暖炉の側、剝がれかけた交差点、夏の廊下、閑散とした市場、誰もいない公園でさえ、風に乗った音が届いていた。唯一静かだったのは、太陽の眠るこの時間。胸の重さを棺に預け、誰もが肉体を休めていた。
 ちろんと、あぜ道に立ち止まる。荒々しい夜風は私のひしゃげた赤い髪を攫っていく。伸びっぱなしの雑草は迷惑そうにこちらを睨んでいた。当てつけのように砂利を蹴ると、ぎちり。灰色鼠の断末魔のような、私だけの音が鳴る。

 ひとり、ひとつ。宝石の種類や形は皆違うから、同じ音を出す者は二人といないらしい。
 塗りつぶしたような暗闇が、口を開けて私を見ている。腹立たしい夜、不機嫌な夜。

 ――るらら、ゆう。るる、りりら。

 ふと、小さな唄が耳をくすぐった。
 無骨なあぜ道を振り返る。刹那、秋の穂を想わせる、透き通った髪の色が私の世界を彩った。
 るり、るらら。細い足がステップを踏むたび、華奢な音色が夜を飾っていく。海洞窟を秘めたような、冷たい青の瞳。くすんだ月明りの照らす、酷く退屈な暗い夜。まっさらな素足をさらけ出し、美しいあの子は私の前に立っていた。

「今晩は。私と一緒に遊びましょう」
 
 白い肌。整った指がこちらに伸びてくる。しなやかな微笑みに相応しく、彼女の宝石はカナリアがさえずるような音を奏でた。あの子の影に囚われた、私は息を止めている。
 街でいっとう綺麗な音を奏でる彼女は、全てから祝福されていた。彼女が指をひと振りすると、乾いた陽の光は淡く色づく。散歩をすれば草木は踊り、瞬きひとつに月は優しく微笑んだ。
 まるで五線譜が風に浮かんだよう。歩くだけで誰もがどよめき、あるいはうっとりと耳を澄ませてしまう。それほどまでに、彼女は綺麗な音を持っていた。

「今夜は眠れなかったの。……あなたも同じ?」

 手は差し出したまま、彼女は透き通った音で首を傾げた。耳にかかった髪がひと房、重力に従って落ちていく。
 胸の前で拳を握りしめたまま、私は一歩後ずさる。

「こんな夜に、もったいない」

 冷や汗をかきながら、胸の宝石はいつにも増して酷い音を鳴らしていた。
 私は彼女とは違う。眠れなかったわけじゃない、わざとこの時間を選んで生きていただけだった。
 
「どうして?」

 もう一度、彼女は小さく首を傾げた。優しい風が吹き抜け、仄かな若草色のワンピースが夜を飾る。

「明るい方が、君の音はよく届く」

 無論、そんな事実はなかった。眩しい朝も底知れない夜も、空気はその身を震わせ、平等に私達の音を運んでいく。
 それでも、彼女はいっとう綺麗な音を持っていた。 森羅万象に愛された幸福な音色。はぐれ者の夜に閉じ込めておくにはあまりにも惜しかった。
 彼女は太陽の下で微笑んでいるべきだった。……私のことなど、知りもしないまま。

「それなら朝日が昇るまで、音を奏でて遊びましょう」

 私の気も知らぬまま、彼女は優しく足先を打ち付けた。ゆうらら、りらら。彼女の宝石がこだまして、私はまた躊躇ってしまう。

「私の音と、ぶつかるよ」
「それなら負けないよう、私も音を奏でましょう」

 くすくすと、彼女はその場で回って見せた。刺繍のあしらわれたスカートの裾がふわりと広がって、魔法のような彼女の音を彩った。
 ふたつの青い湖に、睫毛が優しく影を落とす。彼女はまた、私に手を伸ばす。

「さあ」

 月明かりを纏った鋭い純白は、きらきらと輝いて私の目に焼き付いた。
 もし、その手を取ったらどうなるか。ほんの一瞬、つたない想像に身を任せる。生まれてこの方、私は誰とも遊んだことがなかった。
 まるで天使の落とし物。崇高な音を持つ、神様に選ばれたあの子。
 昼間の子供達のように、公園に行ってみるのはどうだろう。一緒にブランコを漕いだり、シーソーに乗ってみたり。……ううん。せっかくだから道具は要らない。おにごっこをすれば、きっと彼女はいっとう素敵な音を奏でてくれる。あるいは月の光をスポットライトにダンスを踊る。音色は言わずもがな、透き通った彼女の髪は夜空のキャンバスによく映えるだろう。いっそ、いつものあぜ道を歩くだけでもよかった。
 星屑の舞うような、金平糖が転がるような。誰もが羨むその音に、ひと晩中耳を傾けることが出来たなら。独り占め出来たなら。薄汚れたこの夜は、どんなに輝くことだろう。
 特別な彼女の隣。一生忘れられないような、完璧な夜。……けれどそこには、きっと私の音があった。
 
「ごめんなさい」

 ごとん。がりら、じじ、がらり。
 まるで蟾蜍の呻き声。耳障りな音を散らかしながら、彼女に背を向け、私は走り出していた。
 汚れた靴が砂利を蹴る。足先の衝撃が脹脛、太ももへと伝って宝石へと帰っていく。ちろんと、また貧相な音が鳴る。耳を塞げば、今度は腕の振動が宝石に見つかった。
 ごろ、ががが。ぎち、じりん。喉を抜けていく冷たい空気、張り裂けそうな肺。頬を伝う涙ですら、私の恥を晒していた。
 見ないで欲しい。知らないで欲しい。お願いだから、どうか私を聞かないで。
 目を瞑ると、瞼の裏にあの白い手が蘇る。私は私の音であの綺麗な音色を汚したくなかった。けれど、ああ。もし私がこんな音でなければ、きっと迷わずあの手を取って、この夜を飾ることが出来たのに!

「明日も私、ここであなたを待ってるわ」

 風が不満げに私の背中を押す。あの子の音は手のひらをすり抜け、幻聴のように鼓膜を揺らした。彼女はその声ですら美しかったのに。
 はしたなくて恥ずかしい。私は、私の音が嫌いだった。

 

 ♢♢♢

 

 燦々と、古びた窓から鋭く陽が差し込んでくる。太陽は街の人のためにあった。
 堂々と燃え盛る、その巨大な瞳から逃れるよう、古びた棺で眠りに落ちる。瞼を閉じる直前、朽ちた天井に睨まれながら、私はいつも夢に見た。

 もしも、私の音がこうでなかったら。もしも可憐な花のような、透明なピアノのような、誰もが羨む音を奏でることが出来たなら。
 きっと私は目いっぱいに陽の光を浴びるだろう。胸を張って石畳を歩き、誰かと一緒にシーソーに乗る。思い切りこの身を伸ばしながら、出鱈目なステップでダンスを踊る。そこには恐怖も惨めさもない。暗いあぜ道なんて知らぬまま、惜しげもなく私の音を響かせて。
 どんなに素敵なことだろう。私が私を恥じらわずにすむなんて。

 もしも私の音がこうでなかったら。もしもこの世界を愛することが出来たなら。
 もしも、神様に愛されていたのなら。

『胸の宝石はね、交換出来るの。あなた、知ってた?』

 ぎご、ががり。じりごどん。
 結露に濡れた窓の外、世界が茜色に染まる頃。私は重い胸を引きずって、割れた鏡の前に立つ。
 棺と同じ、焦茶色のワンピース。裾の埃を払い、古びたブラシで赤毛を結う。持っている中で一番上等な木靴を履いて、湿っぽい部屋から抜け出した。

 歩く私の音に合わせ、錆びついたランタンが揺れている。忍び寄る暗がりに安堵しつつ、いつものあぜ道を突き進む。
 今宵は新月。暗闇を恐れた人々は、早々に胸の荷を下ろしていた。
 眠った街とは逆方向。放置された藁を横目に、黒い水たまりを超えていく。桟橋を軋ませ、野を踏みしめると見えてくる、冷たい森の入口。大きな楡の木の下で、あの子は私を待っていた。

「今晩は。いい夜ね」

 小さな花の描かれた白いランタン。仄かな明かりのすぐ側で、彼女は私に笑って見せた。
 一体、何が彼女を惹きつけているのだろう。あれからあの子は宣言通り、何度も夜に現れて、何度も私を見つけ出した。
 私はその度に恥ずかしくてたまらなかったのに、彼女はお構いなしに隣を歩き、りりら、ゆう。光に満ちたその音を奏でた。私の卑屈な後ろめたさは、どうやら彼女には関係のないことのようだった。胸の宝石に恵まれた、彼女はいつも自信に満ちていた。
 ふたつのランタンを挟み、枯れた芝に腰を下ろす。傷ひとつない膝をかかえたまま、あの子はるると首を傾げた。

「何だか、元気がないみたい。それなら今日は、そそっかしい林檎売りの話でもしましょうか」

 薄い桜色の唇が、うっそりと弧を描く。まるで三日月でも住まわせているように、彼女は口元に常に笑みをたたえていた。

「……昨日、君の言ったことを考えていたんだ」

 喉の煤を払うように、咳ばらいを落とす。夜に顔を合わせる度、私達は少しづつ言葉を交わした。
 もちろん自分の音が気にならなくなったわけじゃない。ただ、私が思っている以上に彼女は諦めが悪かった。それに大きな太陽の元、たくさんの人達と関わる彼女は、私より物を知っていた。

「昨日……。何を話したかしら。夕飯のパイが美味しかったこと? 木の実を盗んだリスのこと?」
「違う。……宝石を交換できるって話だよ」

 なるべく音を鳴らさないよう、木の幹に背を預け、脱力したまま空を見上げる。
 おっちょこちょいな郵便屋の失敗談、野良猫の恋愛事情、焦がしてしまったパンのこと。案外お喋りだった彼女は、りりららと音を奏でつつ、たわいもない昼間のことをさえずった。……そんなおもちゃのような彼女の生活の中に、当たり前にあった知識。

「あの話を、もっと聞かせて欲しいんだ。……どうやって交換するの? 取り出せるような場所なんて、どこにもないのに」

 首は動かさないよう、横目で彼女を見る。
 月の色をしたノースリーブのワンピース。陶器のような二の腕をさすりつつ、彼女は笑って瞼を閉じた。
 
「つまらないでしょう、そんな話は。もっと楽しいことを話しましょう」
「そんなことない。私にとっては大事な話」

 身を乗り出した途端、ぎちちと音が鳴る。反射的に顔を顰めると、また私の宝石は醜く嗤った。
 確かに、あの音色を持つ彼女にとっては酷くつまらない話だろう。昨日、その話に触れた時だって、私が口を挟む間もなく、気がつけば彼女の話は移ろっていた。
 けれど、簡単に聞き逃せるはずもない。彼女が何気なく口にしたその知識は、棺に横たわる私の空想をどこまでも深くした。

 ひとり、ひとつ。この世に同じ音を出す者は二人といない。宝石の種類や形が違うから。
 それならもし、私の胸の宝石がその形を変えたなら。貧相なこの胸に、新しい宝石が輝くのなら。

「教えて欲しい。どうやるの」

 じじり。首を動かし、改めて彼女を見つめる。
 ランタンに照らされた、完成された横顔。彼女は初めて唇を真っ直ぐに引き、詰るように私を見ていた。

「あなた、宝石を交換したいの?」
「だって、私の音は変でしょう」

 正直な彼女は何も言わなかった。少し寂しかったけれど、正しいと思う。藁を喰む牛、死にかけた蝶番ですら、私よりも綺麗な音を持っていた。
 夜の風に木の葉がさざめく。靡く髪に紛れ、彼女はほんの一瞬目を伏せた。未知の救済に縋る私に、その表情は分からない。
 やがて視線はそのまま、彼女はまた口元に鋭い弧を描く。
 ゆう、りらら。あやとりでもするように長い指を絡ませながら、あの子はそっと音を奏でる。
 
「宝石の交換は、愛の証。互いを愛した者同士の、気の狂った行為なの」

 曰く。心の底から大切な人に出逢ったら、人は自分の全てを与えたくなるのだと。
 ひとり、ひとつ。宝石は謂わば命の核だった。そんな物を交換したくなるほど、私達は誰かを愛することが出来るらしい。

「お互いが愛おしくて愛おしくて、どうしようもなくなって。そうして初めて、私達は胸の宝石を交換するの」

 胸の宝石が変われば、当然振動も変わってくる。
 それまで自分のものだったはずの音が、最愛の人から聴こえてくる喜び。愛した人の音色が、自分の身体から聴こえてくる幸せ。途方もない愛のため、私達は宝石を交換するのだと。

「幸せなのでしょう。どこにいても、何をしていても、大切な人の音を耳に出来るのだから」

 愛する誰かの宝石は、その重みすら温かいらしい。
 がろ、と。歪なため息が零れる。せっかく彼女が話してくれたというのに、私は落胆していた。
 思った通り、この胸の宝石を変えれば、私は新しい音を手に出来る。……けれど。

「……なんだ。宝石って、売ってるわけじゃないんだ」

 まるで、小石に躓いたような気持ちだった。
 頭の片隅、棺の中で膨らませた空想が風船のように破裂する。宝石を、音を変える方法があることを知っただけ。結局のところ、私には縁のない話だった。
 朽ちた小屋の中、太陽を避け、隠れるように生きてきた。愛し合う相手なんて、私にいるはずがないのだから。

「――おかしなの!」

 ゆうり、らら。
 その瞬間、慌てた妖精の羽音のような、金色にきらめく音が弾けた。

「宝石が売られてるだなんて、そんなこと!」

 肩を落とす私のことなどお構いなしに、彼女は身体を折り曲げ、それは楽しそうに声を上げて笑った。
 何がそんなにおかしいのだろうと思う。宝石の交換と聞いて、疑いもせず花屋のような場所を思い浮かべていた私には、よく分からなかった。ヒマワリやカーネーションのように、私の空想の中では宝石だって可愛らしい棚に並べられていたというのに。夜を選んで生きている、私は物を知らなかった。
 それでも綺麗な音色を散らしつつ、あんまりにも彼女が笑うものだから、私もだんだん恥ずかしくなった。
 ぎろ、じりり。耳が熱くなって、頬が熱を帯びていく。いつものような、腹の底が冷える恥ずかしさとは少し違った。隣の音色が綺麗だからだろうか。不思議と嫌な感じはしなかった。

「仕方ないよ。だって、私は何も知らないから」

 少し不貞腐れてみれば、彼女はようやく目尻に溜まった涙を拭いた。頬が赤らんでいるせいか、笑い終えた彼女はいつもより幼く見えた。
 ふたりの間、ランタンが驚いたように音を立てる。らるらと呼吸を落ち着けた、彼女はこちらへ顔を近づけた。

「ねえ、あなた。私と交換しようとは思わないの?」

 視界いっぱいに広がった、彼女の瞳の中の青。
 海まで持ち得てしまう彼女の美しさに、一瞬息を詰めながら、私はごとんと後ずさる。

「それって、愛し合う人同士がすることなんでしょう?」
「愛なんて。きっと、後からでもついてくるものよ」

 何でもないように彼女は謳い、遠慮もなしに私の手首を握った。気が付いた時には、冷たい指先が彼女の上等なワンピースの生地に触れている。
 瞬間、カッと顔に熱が集まった。手のひら、絹の手触りと確かな温度に、薄くて白い皮膚の下を想像してしまったから。
 ゆうら、りり。ごと、ぎちち。
 まるで砂利と星屑。ふたりの振動が、夜の空気に溶けていく。

「どう?」

 透き通るような髪の下、冷たい海がうっそりと笑う。
 握られた手首がひたすらに熱い。彼女は魔女のように私の気持ちを見透かし、一層強く私の手のひらを自身の胸に押し付けた。逃れられないまま、私は気づけば自由な方の手で自分の心臓を抑えている。そうしないと、錆びついた私の宝石は砕け散ってしまいそうだったから。
 夜のヴェールを背負い、彼女は妖しく首を傾げた。その煌めく青の奥。揺らがない水面に、私はそっと息を飲む。
 実際のところ、聡い彼女は愚かな私を揶揄って遊んでいたのかもしれない。金曜日の黒猫のような彼女は、私の反応を楽しんでいるようにも、気まぐれな冗談を言っているようにも見えた。彼女は思いの他、お喋りが好きだった。
 ただ。……それにしては、どこか。

(もし、私が彼女の音を奏でられたなら)

 波打つ宝石から気を逸らすよう、ひとつ目を瞬く。ゆっくりと、焦がれるような全身の熱を冷まし、慣れ親しんだ空想へと手を伸ばしてみる。
 この邪な衝動のまま、その問いに返事をするのは不義理だと思った。その深い海に飲み込まれる寸前、なぜか喉元にナイフを突き立てられたような感覚を覚えたから。
 美しい者の頭の中など、私にはさっぱり分からない。それでも彼女は、ただ私の答えを待っているような気がした。

 ゆうり、らら。るらら、りら。
 考えたことがないなんて、そんなはずもなかった。 いつか変えるなら、いっとう綺麗な音を奏でたい。
 私は私の音が嫌いだった。きっと、私の宝石も嫌いだった。もし私が彼女のような音を奏でられたなら。草木を愛で、月や太陽まで惚れさせるような、そんな音色を響かせることが出来たなら。私の世界はどれだけ優しく輝くことだろう。惨めさに泣いていた私は、どれほど救われることだろう。
 私が彼女の音を持ち得たら。……私のこの身体で、彼女の音を奏でられたなら。

 ぎり、ごとん。
 自分の胸に当てていた手を下ろせば、すっかり冷めた音が鳴る。

「君の音は、君の音だ。……私の音には、ならないと思う」

 刹那、私の手首を握る、彼女の指がぴくりと跳ねた。絹の下、彼女の宝石は規則正しく脈打っている。私は私の答えに、一度深く頷いた。
 確かに、彼女の音は私の理想そのものだった。夜、寂しい棺の中の空想に、彼女が出てこない日はなかった。彼女の持つ美しい音色に、私は心底焦がれ、陶酔していた。
 ただ、それは彼女が持つ音だったからだ。どれだけ得意の空想を膨らませたところで、彼女の音は彼女の物。悲しいことに、決して私の音にはなり得ない気がした。……たとえ、この場で宝石を交換できたとしても。
 沈黙を撫でるように木の葉がさざめいていく。彼女は少し間を置いて、ようやく私の手首を解放した。

「可笑しなの。私が宝石を交換したら、私は私じゃなくなるの?」
「そうじゃない。ただ、君の音は、君によく似合ってる」

 るらら、りら。
 金色の髪をしだれさせ、彼女は興味深そうに頬杖をつく。右の手首、熱の名残に触れながら、その口元の三日月が消えていることに気が付いた。
 ゆりららと、彼女はピアノを弾くように、指先で自分の頬を叩く。まるで飴玉でも転がすみたいに、私の返事を味わっているようだった。
 僅かに揺れるランタンの明かりがその横顔を照らしている。それまで彼女を彼女たらしめる鋭い表情にばかり気を取られていたが、その顔は案外あどけなかった。
 やがて、彼女は綻ぶように頬を染めた。

「……本当はね、私もそう思うの」

 諦めたように。あるいは、安心したように。
 私に向き直った彼女は、両の手をその胸に添えた。ゆうら、らる。彼女をやさしく宥めるように、小さく音が鳴る。

「私は私の音が好き。世界で一番、愛してる。……この胸の宝石を手放したくないと、心からそう思うわ」

 少し照れくさそうに、そして心底嬉しそうに。まるでただの少女のように、彼女は笑った。
 刹那、がこん、と。私の中で何かが腑に落ちる。

「うん。きっと、それがいい」
 
 自分の音が好き。世界で一番愛してる――。それは神様に選ばれた者だけが使える、ある種の呪文だった。
 まるで、星明かりのブーケでも手にしたよう。きっと初めて見た彼女の笑顔は、愛おしい煌めきを宿していた。それまででも十分美しかったはずなのに、丸裸になった彼女はさらにその身を正しく輝かせる。それは私じゃ一生かかっても到達できない、圧倒的な境地。彼女の音色が私に似合わない理由だった。
 気付かないうち、結った髪を撫でている。懸命に覚えたはずの身だしなみでさえ、今はどうにもみずぼらしい。
 私は私の音が嫌いだった。彼女は生まれた時から、特別な宝石を持っていた。
 少しだけ、形や作りが似ているだけ。彼女と私は、まるきり違う生き物だった。

 穏やかな絶望の中、ぼやけた頭は下手な空想を繰り返す。
 あの音色に守られてきた彼女の宝石は、どんな形をしているだろう。何者にも染まらない、強い心のすぐ側で、どんな色を見せているのだろう。

「君はきっと、綺麗な色の宝石を持っているだろうね」

 緩んだ宝石の軋む音。意図せず零れたたわいもない言葉に、彼女はりららと頷いた。

「ええ。ありがとう」

 私の宝石について、彼女は何も言わなかった。謙遜やお世辞を含めて、彼女は嘘を言わない人だった。その事実に私は密かに落胆して、そんな自分がまた少し嫌いになった。
 静かになった夜の海。息継ぎでもするように、自分の胸を眺めてみる。
 この薄い皮膚の下に仕舞われた宝石の色を、私はまだ知らない。だって私は誰ともこの石を交換したことがなかったから。……それでも無駄な期待をするほど、既に私も無知ではなかった。
 ぎちち、ごとん。澄んだ夜を穢すよう、錆びた音が伸びていく。
 私は私の音が嫌いだった。だからきっと、この胸の宝石も醜い形をしていることだろう。

 

♢♢♢

 

 月の明かりが太陽の輝きであることを知った時の喪失感を、今でもよく思い出す。

 遥か昔から、世界は太陽を中心に回っていた。人々が活動するのはいつだって昼間の明るい時間。熱い光のおかげで私達は時の流れを知り、草木は日光で息をした。この世を牛耳る巨大な瞳が、私は憎くて怖かった。……だから太陽が絶対に干渉できない夜の時間、静かにその身を浮かべる月に、ひとりで希望を見ていたのかもしれない。太陽が昼の女王であるならば、月こそが夜の王であると、私は信じて疑っていなかった。
 しかし、思い返せば月明かりに温度はなかった。静かな明かりでは作物が育つこともなければ、本を読むことも出来ない。新月の夜だって、古びたランタンひとつで私達は月の役目を補えた。……しかもその些細な明かりですら、元を辿れば太陽の物だったなんて。

 ぎちり、ぎぎ。
 少し頭を動かせば、短く切り揃えた髪が木の幹に引っかかる。大きな楡の木に背を預け、私は物言わぬ満月を眺めていた。
 だって、悲しいじゃないか。月は唯一、あの恐ろしい太陽と渡り合える存在だと思っていたのに、結局のところ太陽の付属品に過ぎなかっただなんて。あんなに強大で美しい月ですら、太陽に与えられる物を持っていなかった。

「――知らない音ばかりなの」

 りりら、ゆう。
 靡く風に、彼女は唄う。背中を覆う長い髪、小さな頭を幹に預け、彼女もまた月を見ていた。

「一番高くブランコを漕げたあの子も、ちぐはぐ靴下のあの子も、みんな違う音になっちゃった。公園にも来てくれないの」

 膝を抱えながら、彼女はつまらなそうに肩をすくめる。
 連日の彼女の話によると、どうやら巷では宝石の交換が流行っているらしい。

「いいことだよ。それぞれに愛し合う人がいるんだから」
「でも、みんなとすれ違っても私、もう顔を見なきゃ誰が誰だか気づけないのよ」
「それなら、顔を見たらいいだろう」
「面白くないでしょう。私達、せっかく音を奏でられるのに」

 拗ねてしまったのか、彼女はるららと腕の中に顔を埋める。
 視線だけを動かして隣を見れば、可愛らしい彼女のつむじが見えた。出会った頃は同じくらいの背丈だったはずなのに、私の身長が勝手に伸びるせいで、すっかり彼女の目線を追い越してしまっていた。
 くすぐったい春、蛍の踊る夏、達観した秋、白い雪の睨む冬。変わらない楡の木の下、いくつもの四季を跨ぎ、私と彼女の間には長い月日が流れていた。
 太陽を恐れるまま、私の世界は相変わらず棺と夜を中心に回っている。彼女と会うことが日課になって、私は音を鳴らさずに動くことが上手くなった。
 つまり、忌まわしいあの音は私を囲ったまま。愛する人など見つけられず、私の宝石はこの胸に居座り続けている。

「あなたのことは、どこに居たってすぐに分かるわ」

 ゆう、らりら。私の考えを見透かしたように、彼女は青い瞳をこちらに向けた。美しい音色を持つ彼女の宝石もまた、気高くその胸で輝き続けていた。

「それはどうも」

 瞬きだけで頷くと、彼女は何でもないようにまた月を見上げた。細く真っ直ぐなその髪は幹に絡まることなく、彼女の二の腕を覆っている。
 たとえば靴を履くのが苦手なこと。八番通りにある店のピクルスが好物なこと。昼間のあらゆる事象に対し、案外不満が多いこと。けれど言っても仕方ないからと、普段は巧妙に隠していること。
 夜を共にするうちに、奇しくも私は彼女に詳しくなっていた。口元に飼っていた三日月もどうやら余所行きだったらしい。妖艶さのヴェールを脱げば、他の少女達と何ら変わらない、むしろ彼女は素直な性格をしていた。
 私の音に対しても彼女は躊躇せずに触れてきた。それでも彼女は事実を口にしただけで、そこに嫌味や皮肉はない。その証拠に汚いだとか耳障りだとか、そういう言葉を当てがわれたことは一度もなかった。だから私も、傷ついたりはしなかった。
 私が木の下に現れるたび、彼女は嬉しそうに音を奏でた。熱風に参る夜は氷菓子を、凍てつく夜は毛布を持って、次の日には忘れてしまうようなたわいもない話を、彼女は詩でも綴るように話してくれた。悪い気など、するはずもなかった。
 特別な、選ばれた音色のすぐ隣。
 毎晩飽きもせず、私達はただひたすらに月を見ていた。

「あなたは、どうして私と一緒に居てくれるの?」

 ――だからその言葉は、私の口から出たものだと思ったのに。
 ぎり、と。ひしゃげた音を立てて隣を見る。問いかけたのは彼女の方だった。
 青の双眼。底知れない彼女の深海は、ただひたすらに私の影を映していた。普段、私達を阻んでいるランタンも今日はいない。

「……一緒に居てくれているのは、君の方だろう」

 戸惑うまま、彼女の海に石を投げる。
 成長したのはこの身体だけではない。時は流れ、私は昔ほど無知ではなくなっていた。
 たとえば月と太陽の関係。植物の名前や、リスの特性。彼女と会うようになってから、私はこの頭にたくさんの知識を詰め込んだ。私の生まれたあのあばら家には、古い本がどっさりと眠っていたから。

 私は本を読むようになった。世界を知るようになった。彼女から聞くまで宝石が交換できることを知らなかったように、私が知らないだけで、ひょっとすると交換する他に音色を変える手段があったかもしれなかった。
 知ってみようと思った。私は私の音が嫌いだったから。……それが理由のひとつ。
 もうひとつは、せめて彼女との話についていけるようになりたかったこと。お喋りだった彼女に返せるような話題を、私は持ち合わせていなかった。
 珈琲の染みでくっついた頁。挟まった羽虫を払いながら、ざらつく活字を目で追った。私は知識を手に入れた。
 それでも、私には彼女の質問の意味がよく分からなかった。
 るるららと。気分屋な猫のように、彼女は怒った音を立てる。

「私が嫌なら、あの家から出てこなければいいじゃない。きっと不自由しないでしょう」
「君だって、私が嫌ならここに来なければいいだろう。こんな夜でなくたって、君は街で輝けるのだから」

 反射的に返せば、ついに彼女は頬を膨らませ、黙りこくってしまった。取り残されてしまった私は、月明かりに照らされたあどけない横顔を眺めることしか出来ない。
 だって、おかしな話だ。
 神様に愛された少女。誰もが羨む祝福の音色。
 月日が流れ、掴みどころのない口調、妖艶な微笑みがなくなっても、彼女の輝きが薄れたことなど一度もなかった。彼女がいくら人間らしくなろうと、彼女の価値が損なわれることはなかった。
 ゆうら、りら。るる、りりら。
 私は私の音を、彼女は彼女の音を持っていた。私は私の音が嫌いで、彼女は彼女の音を愛していた。

 その美しい音色を太陽の下でなく、わざわざこんな夜に煌めかせてくれたのは。白く華奢な手を惜しみなく振りながら、木の下で私を待っていてくれたのは。
 私の隣に居てくれたのは、紛れもなく彼女の方だったのに。

「夜は、あなたの物みたい」

 悪戯に目の下を擦り、彼女はまた月を見上げた。

「……そんなはず、ないよ」

 音が響くから、私は首を横に振ることが出来ない。言葉だけの否定は上滑りしたまま、彼女に届くことはなかった。彼女は今も変わらず、常に自信に満ちていた。
 眠っていた木の葉を起こすように、背後から風が吹き抜ける。鋭い毛先は苛立つように私の頬を叩いた。
 ふと、石鹸の清潔な香りが鼻を掠める。夜風は彼女の髪は優しく絡め、深い空へと誘っていた。まるで彼女に配慮したような、雲ひとつない夜。今日は星がよく見えた。

 昼と夜。太陽と月。
 太陽の輝く眩しい時間とは正反対、暗がりの夜は確かに私にお似合いだった。けれど、夜が私の物であるはずもない。
 対等にはなれない。だって私は、太陽の付属品である月にすら、手が届かないのだから。

「ねえ」

 ゆう、りらら。
 透明な彼女の唄声に、木の葉達は一斉に押し黙る。風が止んだのは、彼女の話を遮らないようにするためだったのだろう。それを端から台無しにするように、ぎちりと私の宝石が呻く。
 彼女は気にも留めぬまま、大きな夜空に腕を伸ばす。

「もしもね。もしもの話」

 らりら、ゆう。るる、りりら。
 星々と戯れるように、彼女は細い腕を動かした。まるでオーロラの涙ような、美しい金色の音色。聴き惚れた月は微笑み、嬉しそうに草木が揺れた。彼女の白い指先は、永遠の夜空によく映えた。

 りりら、ゆうりら。らる、らりら。
 いつもに増して煌めく音色を身に纏い、彼女は静かに私を見つめる。
 何度も私を映した、彼女に似合った青い瞳。その氷河の水面にナイフの切先を見る。かつてあの質問を投げ掛けた、幼い彼女を思い出す。
 ぎぎ、じじり。不快な摩擦に、胸の宝石が軋んでいる。

「私の音がこうじゃなくても、あなたは一緒に居てくれた?」

 刹那、彼女はピタリと腕の動きを止めた。
 辺りは信じられないほどの静寂に包まれる。一心にこちらを見つめる青い瞳に、気づけば呼吸を止めている。
 状況はあの時と同じだった。彼女はその海に底知れない冷たさを称え、ただ私の答えを待っていた。だから私もあの時をなぞるよう、静かに思考を巡らせる。

 もし、彼女の音が彼女の音でなかったら。
 もし、彼女が特別ではなかったら。

 誠実に応えなければと、あの時のようにそう思う。
 その日の彼女はいつもより静かで、どこか怒っているようにも思えた。それが恐ろしかったわけじゃない。ただその煌めきのせいか、彼女には触れたら消えてしまいそうな脆さがあった。思い返してみれば、お喋りだったはずの彼女は、月日と共にその口数を減らしていた。
 私と彼女は違う生き物だった。美しい者の頭の中など、私にはさっぱり分からない。

 もし、彼女の音が彼女の音ではなかったら。
 ……もし、彼女が特別ではなかったら。

「居た、気がするよ」

 酷く、曖昧な音が鳴る。
 その言葉は決して嘘ではなかった。けれど、私は答えを急いでしまった。私には上手く想像が出来なかったから。
 思えば私は昔ほど空想が得意ではなくなっていた。棺で眠る前の空想は湿っぽい活字に支配され、私の頭の甘い期待は凍ってしまった。私は既に無知ではなかった。
 手を伸ばせども、空想は上手く形を成さない。だから彼女の問いに応えきれなかった。……いや。それは違う。あの時の私だってそうだった。
 ゆうら、りら。るる、りりら。
 私が惹かれた彼女は、私を辱める彼女は、いつだって彼女の音がした。あの崇高な音色は誰のものでもない、彼女の物だった。――それでも、どうやら私は間違えてしまったらしい。

 ぎりり、じり。
 私の声は空気を伝い、彼女の鼓膜を震わせた。止める術もなく、そのまま彼女の心に、美しい宝石に触れてしまう。
 失敗したと、瞬時にそう思った。だからと言って、正解も分からなかった。
 静寂が解けていく。案の定、風が枯れるように、彼女は笑った。

「私ったら、嫌な子ね」

 彼女の海が翳っていく。
 ぎち、じりり。取り返そうと喉の奥で音が鳴るけれど、とうとう言葉にはならなかった。傷つけたことを理解している癖に、それを癒す知識を持ち得ていなかった。
 何を言えばいいのか分からない。真っ当な太陽から逃げ、ひとりで生きてきた代償だった。

「……君は、優しいよ」
「ええ。……もちろん」

 私の言葉は正しく伝わって、彼女もまた正しく頷いた。彼女は決して嘘をつかない人だった。彼女はいつも自信に満ちていた。
 明るい夜。間を遮るランタンはないはずなのに、私達の距離はやけに遠い。月明かりの照らす音のない横顔に、私はようやく彼女が落ち込んでいたことに気が付いた。

「……ねえ。あなた、知ってる?」

 りら、るるら。
 気丈に海を魅せながら、彼女は胸に手を当てる。いつかのように、その口元に三日月を浮かべながら。

「宝石の交換って、物凄く痛いらしいのよ」

 強い風が音を攫う。
 その夜から、彼女は姿を見せなくなった。

 

♢♢♢

 

 考える。
 なぜ、私は唯一救われる瞬間であった空想を手放したのだろう。眠る前に見る夢が本を読む時間に変わったから。知識が増え、頭の部屋が埋まってしまったから。本当に、それだけだっただろうか。
 なぜ本を読むようになったのか。宝石を交換する以外に、胸の宝石を変える方法を知りたかった。私は私の音が嫌いだったから。あるいは、彼女の話についていけるようになりたかった。正直に、その比重はどちらに傾いていたか。
 ……それならどうして、私は彼女と話していたかったのだろう。彼女と出会った時に感じた、思わず逃げ出してしまうような、腹の底が冷えるような、惨めで寂しい劣等感は消えてしまったのだろうか。私はまだ、私の音をこんなにも憎んでいるのに。

 棺に横たわる。染みのついた黒い天井を睨みながら、ただひたすらに考える。
 彼女の音だけが特別だったのか。私は所詮、彼女の美しい音色に惹かれた羽虫に過ぎないのだろうか。
 あの時、彼女は何を感じていて、私は彼女に何と答えたら良かったのか。どうしたら彼女にあんな顔をさせずに済んだのだろう。本当はあの時、私は何を彼女に伝えたかったのか。

 ――るらら、ゆう。るる、りりら。

 よく知った音色に、誘われるように身を起こす。
 ひょっとすると、それは考え過ぎた私の作り出した幻聴、蘇った空想の欠片だったのかもしれない。実際、その一瞬を最後に音は潰えてしまったから。それでも無視をするには惜しかった。
 まるで天使の産声のように。その音色は、やっぱり綺麗だったから。

 じり、ごとり。がが、ぎちち。
 気づけば裸足のまま、私は家を飛び出していた。考えても考えても、ひとつだって答えは見つからない。私と彼女はやっぱり違う生き物で、私は彼女の頭の中が分からない。それでもただ、彼女に会いたいと思った。
 空には三日月が浮かんでいる。油断すれば飲み込まれてしまいそうな、深くて不気味な夜だった。

 果たして、楡の木の下には誰もいなかった。
 荒い呼吸を整え、縋るように耳を澄ませてみる。自分の音に邪魔をさせないよう、なるべく身体を動かさず、工夫を凝らして息をする。
 私は昔ほど無知ではなかった。あのひとりぼっちの夜。全てを憎み、泣くことしか出来なかった私の世界に、彼女が現れたから。
 ――らりら。ゆう、りりら。
 ふと、冷たい森の奥。あの音色が響いてくる。まるで導かれるように、私はまた足を動かした。
 神聖な森は余所者を歓迎しなかった。一歩踏み出すたび、蔦や石が素足を傷つける。無造作に伸びる枝は容赦なく頬を切りつけた。怒った荊に髪は乱れ、不機嫌な泥濘が行手を阻む。今すぐに帰れと、黒い鳥は金切り声を上げ、私を追い立てた。
 切り傷が密かに熱を持つ。冷たい空気が肺を犯す。……それでも構わなかった。

 足を動かす。目を瞑りながら、ただひたすらに耳を澄ませて。
 前を向く。恥ずかしげもなく、滑稽な音を鳴らしながら。
 彼女はどうしてここにいるのだろう。美しい宝石を胸に秘め、彼女は何を想っているのだろう。

 滲む血液で服を汚し、朽ちて倒れた大木を跨ぐ。途端、忘れていた月明かりが降り注いだ。頭上を見れば、それまで見えなかった夜空が丸く広がっている。
 ぽっかりと、平らな地面が覗いている。鬱蒼とした森の中、まるでそこだけ切り取られたかのように、木々や岩は姿を消していた。
 かつて雷でも落ちたのか。あるいは、そこに佇む彼女のためか。

 らりら、ゆう。ぎぎ、ごとと。
 裸足のまま、枯れた草を踏む。何も分からないまま、私は彼女に辿り着く。

「ねえ!」

 間違いなく人生で一番、大きな声だった。途端、背中を覆う金色が小さく揺れる。彼女は躊躇うように、あるいは怯えるように身を固くした。それでもきっと随分前から、彼女は私が近づいてきていることを知っていたはずだった。
 怪しげな三日月が私達を見下ろしている。ららと音を響かせ、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
 刹那、胸の宝石が凍りつく。

「今晩は。そんなに慌てて、どうしたの」

 まるで無邪気な子供みたいに。何でもないように、彼女は笑った。
 まっさらなその手に、ありふれた銀色のナイフを携えて。

 ぎろ、じろろ。
 痛んだ足では音も殺せないまま、私は一歩、彼女に近づく。
 よく見れば、彼女はいつものように裸足でそこに立っていた。にもかかわらず、輝くような肌に傷はひとつ見えない。髪がほつれていることも、若草色のワンピースが汚れていることもなかった。笑ってしまうほど、私と彼女は違う生き物だった。

「私は、君のことが好きだよ」

 裂けたスカートの裾を握る。正解など分からないまま、考えるよりも先に言葉が落ちていた。そこでようやく、私は答えに出会う。
 彼女の音色に惹かれていた。着飾った笑顔も、着飾らない笑顔も、彼女に似合っていると思った。会いに来てくれることが嬉しかった。少し気の抜ける、おどけた話を楽しみにしていた。ころころと変わる表情が可愛らしいと思った。隣でずっと見ていたかった。身だしなみを覚えたのも、本を読むようになったのも、全部彼女のせいだった。
 夜が寂しくなくなった。いつの間にか後ろめたさを忘れていた。私は、彼女のことが好きだったから。
 たとえ音色を抜きにしたって、私は彼女のことが好きだった。楡の木の下、誰も知らないあの時間は、紛れもなく私の宝物だった。
 まるで真夏の海のよう。大きな瞳を瞬かせ、彼女は晴れやかな声を上げた。

「知ってるわ。私も、あなたのことが大好きよ!」

 らりるらと。はしゃいだ音色に息を吐く。いかなる時も、彼女は嘘をつかなかった。
 まるで魔法のステッキのようにナイフを振りながら、彼女はくるりとその場で回ってみせた。そんな彼女に倣って、音色は流星のように芝の上へ降り注ぐ。
 りりら、ゆう。らる、らりら。
 スカートの裾が落ち着いて、花びらが散るように、音色もゆっくりと収まっていく。まるで森の精だった。
 水面でも歩くように、彼女はそっとこちらへ足を伸ばす。

「ひとり、ひとつ。私達は、特別な音を持っている」

 ナイフは下ろしたまま、彼女は片手で自身の胸に触れた。
 愛しげなその音を保ったまま、彼女の海は私を映す。

「ねえ。きっと、私だけが特別じゃないのよ」

 言葉に迷いのない彼女の言葉に、思わず戸惑ってしまう。彼女は常に自信に満ちていた。

「ひょっとして、私もそうだって言いたいの?」
「ええ。あなたの音だって特別。下を向く必要なんて、これっぽっちもないわ」

 彼女の白い肌が、月明かりに反射する。優しく腕を伸ばし、彼女は慈しむように私の胸に手を当てた。素直に温かいと思う。枷のように重たい胸の宝石が、少しだけその身を軽くしたような。
 思えば、彼女が私の音を取り立てたことは一度もなかった。褒めることもない代わりに貶すこともしない。きっと、彼女にとってはどれも特別な音だった。だって、彼女は決して嘘をつかなかったから。

「私、嬉しかったの。あなたが、宝石の交換を断ってくれて」

 りら、と。不意に手が離れていく。彼女は困ったように目を伏せ、なり損なった笑顔を浮かべている。

「街のみんなは、私の音を欲しがった。みんな、私の音だけを欲しがった」

 寂しげに吐息は揺れる。夜を過ごす私は、昼間の彼女を知らなかった。

「それは……君が、あんまりにも綺麗だから」
「ええ……。分かっているわ。だって、私は私を愛しているもの」

 確かめるように、あるいは呪文でも唱えるように。彼女は背筋を伸ばしたたま、また自分の胸に手を当てた。
 頭の中、古くなった空想の引き出しを開けてみる。彼女はこれまで、どんな気持ちで昼の街を歩いていたのか。彼女がどんな夜を越えてきたのか。
 どれだけ考えようが、自分の音が嫌いな私には、彼女の気持ちは分からない。ただ、彼女が彼女を愛した理由だけは想像できた。
 周りの誰よりも美しい音色だったから。神様に愛された、特別な音色だったから。……そうではない。彼女は特別であり、特別ではなかった。きっとみんな、同じ。
 その身を輝かせたのは彼女自身だった。彼女はただ、自分の音色に誇りを持っていただけだった。

「……あなたのことだって、きちんと分かっているつもりなの」

 真空のような夜の中、彼女は深い海をこちらに向けた。

「あなたは確かに私の音に惹かれた。……だけど、それだけじゃない。きっとあなたは、私のことを見てくれた」

 るら、りりら。
 まるで、悲しみに溺れたような。あどけない二つの瞳から、大粒の涙が流れ出す。

「だから、あなたのことを疑いたくない。あなたのことを酷い人だと思って……自分を、嫌いになりたくないの」

 両手で持ち直したナイフの切先を空に向け、彼女は一歩、後ろに下がる。桃色の花弁のように涙を散らしながら、彼女は少し、笑っていた。
 自身の強い音色に当てられ、彼女は酷く絡まっているように思えた。きっと彼女は誰のことも憎んでいなかった。彼女の世界に悪人は居ないようだった。だからこそ、彼女はずっとひとりでいた。

「私は、どうすれば君を救えるかな」

 右腕、ひりつく切り傷を抑えながら、私は奥の歯を噛み締める。その問いかけは祈りに似ていた。
 彼女の孤独を理解することは出来た。けれど、それは自身を愛する者の孤独だ。いくら本を読んだとしても、たとえ昼間に出歩いたとしても、私には到達できない領域の話だった。私と彼女は、まるきり違う生き物だったから。
 半端な手出しは余計に彼女を傷つけると、私は身を持って知っていた。

「この宝石を、あなたにさらけ出すことが出来たなら、あるいは、私は生きていられたのかもしれない。……だって、ねえ。私、こんなにも寂しいの」

 ナイフを聖剣のように握りしめ、彼女は小さく震えていた。力の入りすぎた白い指が、痛々しい赤色に染まっていく。
 完璧だと思っていた、美しい音色に恵まれた彼女は、それでもあの暗いあぜ道を知っていた。夜の寂しさを知っていた。

「――だけど、私は宝石を手放せやしないわ」

 るりら、ゆう。
 透き通った青い水面が、銀色の切先を捉える。
 今、私の目の前で、彼女は穏やかな絶望に濡れている。こんな時まで綺麗な音を奏でながら。

「たとえ、このまま寂しさに殺されてしまっても。だって、私は私を愛しているから」

 ゆっくりと、ナイフの先が彼女の胸を、その先の宝石を見据える。
 彼女の音色が好きだった。彼女の笑顔が好きだった。私は彼女が好きだった。――だからこそ、動くことは出来ない。恐怖に引き攣ると同時に、彼女は確かに安堵していたから。

 彼女は彼女を愛していた。
 それ故に大切に大切に輝きを仕舞って、このままじゃ腐ってしまうから。

「私は私を守るために、この道を選ぶのよ」

 ゆう、るらら。
 最期の音を奏でながら、彼女はその胸にナイフを突き立てた。刹那、パキンと。氷柱の割れるような音が響く。
 まるで自分を抱きしめるように、彼女はその場に頽れた。その身が地面に触れる瞬間、森は無音に包まれる。彼女は世界から見放されたようにも、解放されたようにも見えた。最後まで立ちすくんだまま、私は決して目を逸さずにいた。

 まるで興味を失ったように、風は彼女の髪を乱暴に攫っていく。三日月はじっと夜空に浮かんだまま、表情ひとつ変えやしなかった。
 ぎぎ、じりり。
 ぎこちない音を立てながら、私は彼女に近づいていく。不思議と涙は出なかった。私は彼女のように賢くなかったし、彼女のような本能的な優しさも持ち合わせていなかった。

 動かない。白い遺体を仰向けに寝かせる。ナイフは胸に突き刺さったまま、若草色のワンピースに赤を滲ませていた。
 少し躊躇った後、乱れてしまった彼女の髪を掻き分けて、端正なその顔を覗き込む。初めて触った彼女の髪はやわらかく、少しひんやりとしていた。

「……ねえ」

 ぎり、がたん。どうしようもなく、音を鳴らす。薄い瞼はぴくりともしないまま、彼女の音色が帰ってくることはない。
 長い睫毛の下で、海は静かに枯れてしまった。もう二度と、私のことを映さない。
 ひとりぼっちの森の中、ともすれば騒がしさを感じてしまうほど、頭の中は恐ろしく静かなままでいた。

 きっと、私は悲しんでいたのだろう。何も出来なかったことが虚しくもあった。少しだけ、彼女に怒ってもいた。
 だって、我儘な話だ。自分の宝石を手放せないけれど、愛が欲しいだなんて。彼女の死は決して美談ではなかった。しかし同時に、酷く誠実な選択のようにも思えた。
 彼女は何を選ぶべきで、私はどうすればよかったのか。私にはいつだって正解が分からない。……ただ、ひとり。寂しいと思う。

 彼女がいなければ、私があの楡の木の下に集うことはなかった。私は本を読まなかったし、宝石のことを知らずにいた。たとえ私の音色がこうじゃなくても、きっと彼女は私の隣に居てくれただろう。
 私との不協和音を気にせず、彼女はいつもそばにいてくれた。――それが、私達の全てだった。

 まるで月明かりに導かれるように、私は彼女の胸からナイフを引き抜いた。
 途端、濁った音と共に、赤い泥濘が広がっていく。それでもなお煌々と光るナイフの切先に、ひとつ、呼吸を落としてみる。

 私はずっと、違う音になりたいと願っていたはずだった。もしもこんな錆びついた音じゃなく、いっとう綺麗な音を奏でられたなら、私はどれほど幸せだろうと。それでも今、彼女の清い遺体を前に、それは浅瀬の願いだったことに気がついた。
 私は新しい音色が、新しい宝石が欲しかったんじゃない。誰かと交換したかったわけでも、私の音を誰かに奏でて欲しかったわけでもない。ひょっとすると最初から、私は私の音を嫌ってなどいなかったのかもしれない。
 見て欲しい。知って欲しい。お願いだから、どうか私の音を聴いていて!
 ――きっと私は自分の宝石を、誰かの胸に受け止めて欲しかった。私は誰かに、私の音を赦して欲しかった。……ひょっとして、あなたもそうだったのだろうか。

 震えるナイフの切先を、自分の胸に当ててみる。
 私とあなたが交わることは、ついに叶わなかった。私もあなたも、自分を愛することで精いっぱいだった。それは良いことでも悪いことでもない。だって誰かを愛することは、とてつもなく痛くて、怖いことだから。

 宝石の交換は、愛の証。互いを愛した者同士の、気の狂った行為。
 今なら私にも、その気持ちが分かる気がした。

 ――ごと、じりん。
 不恰好な音を響かせて、私は胸にナイフを突き立てる。
 途端に、全身からぶわりと汗が吹き出す。しかし構っている暇はない。まだ見ぬ宝石を傷つけないよう、慎重にナイフを下に引いていく。震える手は上手く言うことを聞かず、ぶちぶちと、悪戯に肉の裂ける音が鼓膜を揺らした。燃えるような激痛に、血を吐きながら必死で意識を保った。
 ここで気を失うわけにはいかない。私には知識があった。彼女に教わらずとも、私は宝石の交換方法を知っていた。

 眩む視界。ナイフを捨て、赤に塗れた彼女を見下ろす。
 朦朧とした意識の中、それでも一瞬躊躇って、ぽっかり空いた彼女の胸の穴に手を入れた。同時に左手を自分の胸に突っ込む。
 ぎり、じりり、ごが、ぎぎり。にちゃ、ぐつり。
 酷く醜い音を遠くで聞きながら、右手でまだ温かい彼女の肉片を掻き分ける。その赤黒い内側は、まっさらで美しい彼女のものとは思えなかった。
 見たかったと思う。本当は綺麗じゃないところも、もっと。出来ることなら私も、見せたかったと思う。

 永遠にも思えた時の中、ようやく固いものに指がぶつかった。崩れないよう、慎重に赤い海から掬い出す。同じように、私の宝石も胸の中から引き抜いた。
 ころりと。白く飛びそうな意識の中、ふたつの宝石が手のひらに転がる。
 何となく、笑えてしまう。赤黒く塗れた歪な小石。どちらも灰色に燻みながら、少しだけ透き通っている。正反対だと思っていた私達の宝石は、案外似たような色をしていた。
 少し安心したと言ったら、あなたは怒るだろうか。それとも、一緒に笑ってくれるだろうか。

 双子のような石の片割れ、小さくひびの入った方を私の胸に、もう片方を彼女の胸に埋める。そのまま傷口を塞ぐようにそれぞれの胸に手を当て、冷たくなった瞼を閉じた。
 成功するかは半々だった。宝石の交換は生者のもの。死者と宝石を交換する方法なんて、どこにも書いていなかったから。死ぬつもりはなかったけれど、このまま赤い泥濘で朽ちるなら、私はそれでも構わなかった。
 地球が形を変えたように、ゆっくりと周りの世界が歪んでいく。自分がどんな体勢でいるのか、もはや分からなかった。……それでも、どうやら運は私に味方したらしい。

 どれほど時間が経っただろう。
 ふと、呼吸が楽になっていることに気がつき、静かに目を開ける。私の胸の傷はいつの間にか塞がっていた。当てたままだった手のひらに血流の気配を感じ、小さく息をつく。同時に、右手がまだ冷えた肉の中にあることに気がついた。
 宝石は、どうやら生きている肉体にしか順応しないらしい。私の宝石を曝け出したまま、彼女は冷たく目を閉じていた。
 驚きはしなかった。嘆く気持ちもない。むしろ手違いで蘇っていたら、彼女は怒ってしまっただろうから。彼女の宝石を胸に秘めたのは、私の最期の我儘だった。

 両手の赤を払いつつ、ゆっくりと立ち上がる。森は沈黙を保ったまま、あの耳障りな音は聞こえなかった。死んだ宝石は、もう音を鳴らしてはくれないらしい。何もかもから解放されたような気にも、何かを失ったような気にもなった。多分、両方正しい感覚だった。
 全てを一掃するように、風が強く吹き抜ける。烏の鳴き声に耳を澄ませつつ、私は芝に眠る彼女と、受け入れられなかった自分の宝石に目をやった。

 ひとり、ひとつ。
 生まれつき、私達は宝石を持っていた。他にふたつとない、特別な音色を持っていた。

 清々しい寂しさの中、一歩、また一歩。ぼろぼろの素足で楡の木を目指す。
 胸の宝石は、冷たく沈黙を保っている。この先に続く音のない道を、三日月がじっと見つめていた。

ワンルームエンジェル 感想

「分かってもらえている」という感覚はいつだって人の救いになると思う。

同時に「想ってもらえている」という感覚も。

 

他者を理解するのは簡単なことじゃない。

なぜなら私達は全員、自分から見た世界しか味わうことが出来ないからだ。

 

そもそも忙しさを理由に、私達は自分の気持ちだって理解していないことが多い。

本当は悲しいだけなのに、隠すみたいに罵声を浴びせてみてみたり、寂しいだけなのに誰かの上に立とうとしたり。

行動できてしまう私達にとってむきだしの想いを自覚することは面倒だし、億劫だし、何より弱点をつかれるようで怖い。

 

ただ、自分の気持ちすら理解できない人に、他者の気持ちが理解できるはずもない。

ここが他者を理解するための第一関門だ。

 

そして本当に他者を理解したいのなら、自覚した自分自身の気持ちをひとつ残らず切り離す必要がある。

他者の世界を見ようとする時に、自分の世界は邪魔になるから。

これがきっと第二関門。一番難しくて一番重要なことだと私は思う。

 

それが出来たら、出来たと思えたのなら、次の段階。

嬉しいだとか悲しいだとか感情の種類はもちろん、そこに至るまでに相手がどういう経験をしたのか、何を感じたのか、そこにはどんな記憶が混ざっていたのか。

その湿度は、色は、匂いはどうなのか。彼、彼女はその先に何を願っているのか。

 

その全部を考える。確かめる。想像する。感じる。感じる。

それができたと思えて、初めて相手の気持ちを、他者を、ほんの少しだけ理解することが出来たと言えるんだと思う。

それでもずいぶん、曖昧ではあるけれど。

 

しかし方法が何となく分かったところで、言わずもがなこれだけのことをするにはそれはもう物凄いエネルギーが要る。

そして行動面でも心理面でも何かと忙しい人間に、そんな時間は、容量は与えられていない。

 

だからきっと、現実的に他者を理解するなんてこと、人間には不可能なのだ。

…ゼロの状態で、相手の気持ちが流れてくる天使でもない限りは。

 

そんな天使に対して何かを与えることができたのは、彼自身が長く時間をかけて第一関門を突破していたから、あるいは嘘を吐くような器用さが無かったからだと思っている。

もし彼が日常的に嘘を吐いて人間と混ざっていたのなら、天使の言葉もそこまで彼の胸に沁み込むことは無かっただろう。

 

共鳴しても負担じゃない。ズルさ、よこしまさみたいな、人間特有のアクがない人。

 

嘘を言えないその素直さが、他者の言葉をきちんと受け取ることを可能にしたのだ。

結果、彼は天使に分かってもらえた。与えられた。

 

しかし彼は人間だから、天使の感情が流れてくることはない。

せいぜい彼が分かるのは羽の状態だけ、マルかバツか、ただそれだけだ。

相手を大切にする方法はたくさんあるけれど、誰も正解を教えてはくれない。そもそもそんなもの、無いのかも。

 

だから彼は考える。

大事なことは後に伝えるべきなのか、先に伝えるべきなのか。

笑ってもらうためにどんなことをすればいいのか。自分という存在が彼にとってどうなのか。

 

迷って、考えて。迷って、考えて。

 

正解の分からない彼には、考え続けることしかできない。

けれどその思考した時間や気持ちを愛と呼ばずに何と呼ぶのか、まだ私は知らない。

 

愛。想ってもらえている感覚を天使はそのまま享受して、羽を育てたのだ。

そもそも「もっと笑って欲しい!」だなんて、そんな分かりやすい愛に名前を付ける必要もない。

 

ずっと二人に嘘はなかった。

だからこそ天使は天使に成り得たし、二人は出会わせてもらえたのだろう。

 

思うに、生きる上では誰かが隣にいた方が、十分に暮らせる。

もちろん一人でも生活はできるけれど、食べなかったり、眠らなかったりしてもとがめる者はいない。悪い夢にうなされたことだって、自分しか知り得ない。

食べたり眠らなかったりしても多少は生きていけるけど、やっぱり不健康だし、きっと寂しい。

 

きっと存在意義を成すためには、与えるだけでも、与えられるだけでもいけないんだろう。

けれど一人で向き合って、じっと耐えた人でないと、本当の意味で誰かを愛することは難しい。第一関門。

だから仕方なく私達は対象を分けて、存在意義を作ってみたりする。

S君に与えて、けれどS君は同じものを返してくれないから、それを補うようにCちゃんから与えられて。

CちゃんはF君から。F君はNちゃんから。

 

人間は何となくそれで廻っているし、悪いことじゃない。

けれどその相手が互いだったのなら、きっとそれはとても幸せなことなんだろうなあ。

 

アカウントを覗き見て、天使が天使になる前に幸せになれなかったのかなとも少し考えた。

けれど、それはそれで余計なことだと思う。なんというか、失礼な思考だ。

 

本当の救いを、愛を知っているこの二人が今も空で楽しく暮らしているのなら、きっとそれが幸せの形なんだろう。

 

愛して、慈しんで。

いつか誰かとそうできたらいいと、ズルい私は飛べないままに願うばかりだ。

 

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妖精の休息

 霧雨が木々を濡らす。水滴が葉に擦れ、深い緑の香りが際立つ。静寂だけを閉じ込めたような空間だ。
 この森に生き物はいない。全ての生き物はまだこの森の存在を知らなかった。
 
 そんな森の最深部、一際大きな楠に背中を預けて座り込む少女の姿があった。熱に浮かされたようなその瞳は碧く、うっとりと虚空を見つめている。少女は少しの間雨を凌ぎに来たようだった。
 
 彼女のほっそりとした身体は、ボリュームのあるチュールドレスで飾られている。ドレスにあしらわれた柔らかな桜色は、裾に行くほど力強さを増す。そしてその終着点であるかのように、裾からは深紅のヒールが覗いていた。

 氷のように透明な輝きを放っている小さなティアラを、白く細い手で正す。僅かな狂いも彼女には許せないようだった。やわらかなミルク色をした髪は、軽くたゆみ、その長さは少女の肘にまで達している。
 その全てがまるで彼女のために存在するかのように、彼女の儚げな美貌を一層際立たせていた。
 

 しかし、その容姿を実際に確認したものはいない。
 彼女は人の目に映らない。

 
 彼女は上機嫌でしばしの休息を楽しんでいた。

 彼女に愛する者はない。また同時に、彼女を愛する者もいない。それは幾千年も前から変わらないことだった。


 かつて彼女は自身の境遇を憂いたこともあった。
 外界と全く繋がりを持つことが出来ないことから、自身の存在すら懐疑的に思えたのだ。
 自身にしか認識できないものが、果たして存在していると言えるのだろうか。

 それは永久に答えの出ない、哲学的な問いのようにも思えた。
 しかしたとえ彼女が誰の目に留まらなくとも、確かに彼女は自身の碧い瞳でこの世を見ていた。野花の香りをかぐことも、小鳥のさえずりを聞くことも出来た。空腹になれば、好みの味をした木の実を選んで食した。
 そして何より、彼女には思考する頭があった。死ぬことも出来ないたった一人きりでの生を嘆く心があった。

 

 伝えられない想いなど生まれる必要はない。それが彼女の考えであった。受け止める者のいない、にも関わらず溢れてしまう感情はただ彼女を苦しめるだけだったからだ。
 多くの人がそうであるように彼女にとってもまた、ただ生きるだけの生は自身に何の意味ももたらさなかった。それを自覚した時、彼女にとって彼女は最も要らない存在となった。

 

 そうしてただ蓄積され続ける思考は、あまりにも切実で率直すぎるものだった。彼女は自身を見つめすぎたのだ。
 心が何かを想う度、それは自身への叱責に近い問いになって返ってきた。それはまるで己の身を切り裂いてくるような、重く、ひたすらに暗い衝撃。

 

 何度も死を受け入れた。しかし死はその度に彼女を拒んだ。

 

 彼女の声は誰にも届かない。彼女が抱きしめられることはこれから先も絶対にない。完全に遮断された希望とは裏腹に、いつも未来だけはよく見えた。
 ぬくもりすら知らぬまま、どうしてこの冷たい世界を生き抜けるというのだろう。この無用の長物は、一体いつまで呼吸を続けるのだろう。

 

 擦り切れる程繰り返された絶望は、次第に諦観に変わった。彼女は覚えていないだろうが、おそらく彼女の精神はこの時最も死に近い場所に居たのだ。

 

 なぜ自分に脳を授けたのだと、彼女はついに神をも憎んだ。
 プランクトンのように、ただ生命活動を続けるだけの肉塊であればどれほど楽だっただろう。もし考えることも感じることも出来なくなれば、私は何億年でも何兆年でも喜んでこの世に留まっていてやるのに、と。
 心も頭ももう愚図になってしまった。刺激に対してうるさく喚くばかりで、おそらく正しい役割を果たしていない。欠陥品である。神は取り替えてすらくれないのか。
 勝手に私をここに宿したのに。
 
 それは数少ない彼女の転機だった。彼女は自身が生まれることを望んだわけではないということを、唐突に思い出したのだ。同時に今まで自身に向けられていた感情が、初めて他の物にぶつけられた。

 

 彼女は長い間苦しんでいた。この世のあらゆる痛みと苦悩は味わいつくした。吐き気を催すほどの寂しさにも、立てなくなるほどの恐怖にも出会った。ずっと一人で対峙した。
 そしてそれら全てを甘んじて受け入れていた。
 時には自身を敵に回してまで、この苦境を飲み込み、吐き出さないようにずっと我慢していた。

 何故だ。
 何故、何故私が、私だけがこんな目に合わなけれならないのだ。
 
 そこで彼女は気づく。彼女は怒っていた。そう認識した途端、何千年もの時間をかけて熱された怒りは一気に火を噴いた。
 それはある意味で運命からの解放だった。強い快感とエネルギーの中、彼女は彼女の中の何かが急速に晴れていくのを感じた。
 彼女の身に起きる全てのことは彼女のせいではなかったし、受け入れるかどうかは彼女の自由だったのだ。そしてそれはきっと初めから、生まれた瞬間から許されていた自由だった。

 

 そう、彼女は自由だった。皮肉にも繋がりを有さないことは彼女に翼を持たせた。
 誰一人彼女を止めることは出来ない。何にも捕らわれることのない彼女は、何処まででも飛んでいけたのだ。

 

 そしてそれに気が付いた時、彼女は最早独りではなかった。強大すぎる憤怒と激昂の中、とうとう寂しさをも忘れてしまったのだろうか、いや、そうではない。

 

 彼女はたった一人で孤独に打ち勝ったのだ。忘れてしまうほど遠い過去はそれでも蓄積された。怒りの翻弄などもろともしない程、それは力強く堅実に、彼女の中に存在していた。それら全てが彼女を彼女たらしめた。

 

 今や彼女は己を確立させることに成功し、自身の全てを完全に掌握していた。

 
 目の前の濡れていく芝を眺め、彼女は抱くようにして肩に立てかけていた猟銃に頭をもたれかけた。
 繊細な髪がその煤黒い銃身を覆う。

 
 彼女はその猟銃をいつも側に置いていた。

 

 移ろう時代、巡り廻る時間の中、彼女はずっと人間たちを見つめていた。
 彼らは蟻と同じく、群れの中でしか生きられないようだった。

 

 人間たちは彼女が欲した全てを持っていた。
 声を出せば反応はどうであれ、他者が反応する。何をするにも誰かと関わる必要がある。一人で生きている人間は彼女の知る限り、ただの一人も居なかった。
 それが自身の運命と同じく人間にとって強制的なものであったとしても、彼女にとっては泣きたくなる程羨ましいものだった。
 
 しかし、今の彼女はその中に入ることを夢見ている訳ではなかった。

 

 いつ頃からかはもう覚えていないが、ある時から彼女にはある種の人間の声が聴こえるようになった。
 それはかつての彼女の声だった。
 強烈な孤独と、決定づけられた生殺しのような行く末に緩やかな絶望を覚え、跳ね返るような自身の言葉を制御出来ずに絶えず自傷を続ける者たち。

 

 彼女に言わせてみれば、何故意思疎通の叶う中でそんな声を発しているのか、不思議で仕方なかった。仄かに贅沢にも感じた。
 しかし直ぐに考え直す。彼らもきっと自身と同じ。ただ与えられた肉体が人間であっただけなのだ。
 その苦痛と哀しみは生の通過点であることを、彼女は知っていた。しかし、数千年もかかる通過点だ。

 可哀想な人間達。その苦しみを凌駕するには到底寿命が足りないだろうに。


 何でも成せると知ったその時から、彼女はその猟銃をいつも側に置いていた。


 まるで抱きしめるように猟銃にすり寄り、彼女は口付けを落とす。
 その様子を眺めるかのように太陽が顔を出した。たちまち暖かな陽ざしが辺りを包む。なおも注がれ続ける雨は光を受け、生きたように輝く。


 今まで幾人も人間を殺めたその猟銃は物騒で不格好ながらも、不思議と彼女の美しさによく馴染んでいる。

 彼女はいつも遠くからその銃を構える。決してその身を汚さない。
 
 彼女の声も体温も伝わらなかったというのに、鉛玉だけはどんなに遠くからでも心臓に直接届いた。偶然の悪戯か、銃声だけが彼女を肉付け、奪ったものが彼女の生きた証となった。

 

 しかし彼女はもうそんな物を望んでいない。

 

 彼女が引き金を引くのは自身の居場所づくりためではない。自身と似通った欠陥品の脳を持ちながら脆弱な身体に生まれついてしまった悲劇の魂のため、そして僅かな悦びのためだった。

 

 彼女は彼らに心から同情していた。それは彼女が身をもってその苦心を誰よりも理解していたからだ。
 そしてこの世から可哀想な声の主たちを解放することは、あの表現しようのない快感をなぞることに近かった。

 

 無邪気な妖精のように、雨に酔いしれ、快楽に遊ぶ。
 彼女は彼女自身という、何もかもを凌ぐ強い力を手にしていた。

 

 彼女こそが彼女の神だった。真の神だった。

 

 彼らが自身の餌食になることを夢見ていると、彼女はそう信じて疑わない。そしてそれは孫うことなき事実なのだ。


 さぁ、愛しく愚かな人間よ。
 泥のように粘着質な痛みが、出来るだけ長引かないように。
 たった一人で立ち向かわなければならない夜が、なるべく少なくて済むように。
 魅力的だろう?その脳に、その胸に、小さな鉛の餞を。
 

 雨が止んだ。視界は良好だ。

懺悔

 物心もつかないうちから、私には虚言癖がありました。
 嘘をつく相手は母です。私は家に帰るなり、友達に虐められたと話して泣きました。その友達は嫌な奴で有名でしたし、事実その後にいざこざがあった記憶もありますが、当時虐められたという事実はありませんでした。
 しかし母は私の言葉を信じ、その友達に対する怒りを露わにしました。そして私を慰めてくれました。同様に、実家に遊びに来ていた祖母も一緒になって怒り、慰めて くれました。

 罪悪感などありませんでした。私はその時本当に悲しかったし、演技ではなく泣き喚いていたのですから。嘘を重ねるうちにそれが現実のように思えたのか、慰めを求めて嘘を付いたのか、今となっては分かりません。いや、その両方なのでしょう。
 その時母と祖母は確かに私を見ていました。私だけを見ていました。私によって心を動かされ、奥底から優しく、そして暖かく接してくれました。それはそれは心地の良い時間でした。そうする内に、嘘は私の中で事実となったのです。咎める者も特にいませんでした。誰も虚言に気が付かなかったのです。

 

 友達に嘘を付いたこともあります。しかし母に仕掛ける罠とは少し違います。友達への嘘は、主に自分を誇示するために使用されました。

 

 例えばゲームでの出来事。自分が持つおもちゃの事。私は虚言癖を持ちながら、同時に極度の腰抜けでした。また、浅く速く回る頭を持っていました。ですから、幼稚園に直接関係のない母には大胆に作り話を披露したにも関わらず、友達に対してはバレても差し支えのない嘘しか用意することが出来ませんでした。しかし、注目を集めるにはそれで十分でした。そしてまた、その嘘も自分の中でだけ、事実と変貌していきました。

 

 年を重ねるごとに、この虚言癖はなくなりました。嘘は長くは続かないし、リスクも高いことを悟ったのかもしれません。少ないにしろ罪悪感を覚え始めたことも理由の一つでしょう。

 

 代わりに私は私を色々な所で誇張し始めました。今思い返せば、私はとにかく認められたい、褒められたいという欲求が人一倍強かったのでしょう。

 

 成績が良ければ自慢に聞こえない程度に記録だけを伝達しました。運動など、苦手で上手くできないことには触れさせません。また、私は小説が好きでした。これも小学生が大人たちから賞賛を得るには都合のいい趣味でした。ついでに漫画を読まないことも併せて周りに伝えます。少しでも他人より上手くできると思ったものは。オブラートに雑に包みどんどん自慢しました。
 今思い返してみれば裏で疎まれていたのかもしれませんが、そんなの関係ありません。上辺だけの羨望も、私にとっては貴重な酸素だったのですから。

 

 偉いや凄いではなく、大人だとか賢いだとか、そういった言葉が私にとっての最上の誉め言葉になった頃、私は母の変化に気が付きました。ある日、気が付けば母は鬱陶しいような目つきで私を見ていたのです。

 

 その頃の私は少し欲張りすぎていました。テリトリーを広げ過ぎたのです。しかしそれも仕方がありません。大人から捧げられる「大人だね」という烙印は当時の私にとって、紛れもない極上の品だったのですから。そして私の周囲にいる大人は父と母、二人だけ。もっと欲しがってしまうのは必然です。だって私はまだ子供だったのですから。

 

 そういった理由から、私は不意に始まる母の井戸端会議にも進んで参加し自身を誇示しました。私は知らず知らずのうちに母の領域まで犯してしまったのです。
 そんな様子の私を見て、母は私の醜い魂胆に気が付き始めたのでしょう。そして私に憎悪を見せた。それも当然です。むしろ母は踏みとどまった方だとすら思います。自分が腹を痛めて生んだ子が、こんな狡さと卑しさの塊であると知ったのなら、私であれば正気でいられる自信がありません。

 

 母のやっかみの籠ったその瞳を通して、私は等身大の自分を触りました。初めて鏡を見せられたと言っても過言ではないでしょう。それは長い間見ないようにしてきた自身の醜悪な部分でした。あぁ、そうか自分はこんなにも酷く歪み切った人間だったのか。
 私はひたすらに動揺しました。私自身、取り繕って着飾った私のことしか今まで知らなかったのですから。そして思いました。こんなにも汚らしい人格を他者に悟られてしまったら、私はもう褒めてもらえない。褒めてもらえない。それは私にとって息が出来なくなることと同義でした。何より母に完全に軽蔑され、背を向けられてしまうこと。これが最大の恐怖でした。

 

 思うに、両親への執着は人が皆最初にかけられる呪いです。先程も言ったように、私はとにかく認められたい、褒められたいという欲求が人一倍強かった。それも母だけでは補えない程に。その母さえ失ってしまったら私はもうお終いです。かと言ってこの欲求はもう収まらない、抑えようがないものだということは、本能が叫んで知らせていました。
 私は今まで通りに過ごすことを決めました。見ないふり、知らないふりは十八番だったではありませんか。見栄えの良くない花は並べなければいいのです。奥にしまい込んで、誰にも見せなければいいのです。簡単なことのようにも思えました。
 しかし案外己が脆いことを、まだ私は分かっていなかった。

 

 あの時から、私は私のことが嫌いでした。ずっとずっと嫌いでした。

 

 ひた隠しにしてきた都合の悪い己は認識したが最後、もうどうしようもないほど肥大化し、それ自身が叫び続けています。「私は凄い人間なのだ。褒め称えられるべきなのだ。」
 
 幼稚園は行きたくありませんでした。小学校に行く時も泣いていました。寂しかったのです。家以外では、私は私が分からないから。ずっと私を祭り上げていてほしかったのです。唯一無二の存在だと。どこか特別で、聡い子であると。世界中の人に私だけを見ていてほしかった。
 結局悪戯に称号を誇示することでしか、そんな恥を晒すような方法でしか私は私の居る場所を守ることが出来なかったのです。

 

 身体だけが大きくなり見える景色が変わっていくにつれ、もう小さい頃とは勝手が違うのだと私は唐突に自覚しました。いい子でいても褒めてはくれないのです。成績が良いだけで崇められることもなければ、頭を撫でてくれる人さえもういないのです。
 しかし根本的に、私は何も変わっていません。少し長く水中で息を止めることが出来るようになっただけで、酸素が必要なことに変わりはない。今でもずっと私は他人の憧れになること、私という存在、それ自体が褒め称えられることに飢えているのです。
 「私は素晴らしい子供だった。何処か他の子とは違った子供だった。」
 そんな風に小さな頃もらった薄っぺらい勲章にずっとしがみついているだけの、何もかもが剥がされたちっぽけで醜い、今にも死にそうなミノムシが紛れもない私なのです。

 先日不意に赤ん坊の頃の写真を見たとき、私は思わず泣いてしまいました。
 そこに映る両親はあまりにも幸せそうだった。その当時のまま時間が止まれば、私はきっとずっと幸せだったのでしょう。
 赤ん坊の頃の私は、私が己に泥を塗りたくってまで欲した無条件の愛を、一身に受けていたのです。ベビーベッドに横たわり、少し微笑むだけで、皆に幸せを与える存在だったのです。

 

 自身を騙すことにはやはり限度がありました。何度も何度も私は私を殺してやりたいと思いました。
 偽りと共に生まれた私は、何年この世に留まっても欺くことしか出来なかった。しようとしなかった。その事実に悲しむことさえ、もう疲れてしまった。この生き癖はカビのように染みつき蔓延って、もう更生の余地はありません。何から何まで間違いだった。


 死にたがりは生の代償です。生まれたこと自体が罪だったのです。

 

 それ故に今ではもうずっと、ただただ申し訳がない。生まれたことに対しての謝罪が止まない。私は生まれてからずっと私を含め全員を欺いていたのですから。

 

 同情を買ってごめんなさい。賞賛を搾取してごめんなさい。甘い蜜だけを吸ってごめんなさい。こんな私でごめんなさい。騙してごめんなさい。そしてこれからも騙し続けてしまうことを許してください。もうそれしか生き方が分からないのです。ごめんなさい。ごめんなさい。

 

 こんな私にはもう何も望めない、望んではいけないのです。ましてや他人に何かしてもらおうなど言語道断です。
 私は戦わなければなりません。そして慣れなければいけません。どうしようもなく劣悪な欲求と、この息が詰まるような生に。
 内で暴れる獣を水中に沈め、なおも襲ってくるであろう激情に流されぬよう、促されぬよう。目の前にある宝石に目を瞑りただ耐えて耐えて耐えて。
 
 それでもやはり何者にも成れない私が惨めで可哀想で、そんな自分を慰めに現れる私の醜さに、私はまた目を逸らすのです。

希死念慮

 この休憩が終われば、あと一時間と少しで今日は終わる。

 左半身でもたれかかるようにドアを開けながら、ズボンのポケットから携帯を取り出す。アラームを十分後の17:40にセットした。在庫品があちらこちらで影を背負いこちらを見ている。ドアの横にあるスイッチを押して、部屋の一番奥にある窓際に立った。数回点滅した後、白熱灯が部屋を映す。
 
 鞄を探って、潰れた青い箱から煙草を一本摘まむ。指を曲げた途端、水仕事と冬の乾燥で傷んだ皮膚がひび割れた。拭うまでもない血が滲む。
 適当な柄のあしらわれた薄いカーテンを背中に被り、窓を開け、身を乗り出す。この職場で喫煙者は私しかいなかった。冷気が頬を掠める。煙草を加えて、蛍光色のライターで火をつけた。
 

 疲れた、と独り言ちる。特に繫忙期というわけでもないし、目立ったトラブルがあったわけではないが、身体がだるい。頭もずっと重い。

 「あんたもういいわ。」

 先程客に投げられた言葉がふと再生される。喉に濁った空気が張り付いている。

 

 多分、あまりにも数が増えすぎたせいで、人間は一人一人に気を配る余裕などないのだと思う。ましてやこのご時世、他人になんて構っていられないのだろう。個人が個人の中で忙しいし、大変なのだ。自分の言葉を顧みることすら出来ないほどに。
 ねぇババァ、私も他人の言葉一つに気力をつぎ込む余裕は、きっとないんだけど。
 去っていくその老いぼれた背中に笑いかけた私は、さぞいい子に見えただろう。

 

 回り巡る日々の中で、私という人格がどんどん薄められていく気がしてしまう。

 

 元々この国で生まれた私は私のままで生きていたのに、他人と情勢、思考や声に揉まれ絡められていくうちに、その形は歪み固められ、世界にぴったりはまるパズルのピースになった。
 型にも多くの種類がある。絶対に外れてはいけない大きな型は常識といったところか。他には雰囲気とかだろうか。教室やグループが分かりやすい。そして一番小さな型は他者だ。人の数だけ違った世界があり、その一つ一つに型が用意されている。この型には必ずしもピタリとはまる必要はない。しかし、ある程度、そして沢山の数にはまればはまるほど、この国では表面上生きやすくなる。
 この国にいる人は、皆パズルのピースを見ている。その形や絵柄じゃない。ただピースがどれだけ型に一致しているかどうかだけを見ている。

 

 私は多分、もうずっと正解を出し続けている。私の型以外の正解を。

 

 最近、自分の中のよくわからない部分が限界に達しているような気がする。
 時々痛くて苦しくて仕方ない。きっと足元が覚束ないせいなのだ。自分の中にはまる型がないから、根を張る場所を見つけられないでいる。栄養も水も享受できずに、枯渇している。


 向かいに立っているパチンコ屋のネオンが陽気に光る。カラスが二羽、その四角い屋根に止まった。手元の煙がカラスにかぶさる様に燻る。私はただそれを見ている。


 よく私は自分と対話をする。私はパズルのピースなどではないと確認するためだ。
 いつも生きるために型に合わせて変容しているだけで、あくまで表面的な話でいるはずなのだ。私の核はずっと私の中にある。私はここにいる。ずっと私の側にいる。お前の口も耳も手も顔も、とっくに廃退してしまいもうよく見えないけど。

 考えてみると、この頃上手く自分が出てこない。久しく私は私に会っていないように感じる。
 何かしようとすればするほど、何も出てこなくなってしまうのだ。
 様々な矛盾や苛立ちに高ぶって冷めやらない私は、今にもどこかへ駆け出してしまいそうなほど衝動的で強大な力を秘めている。なのに、いざ解放しようとすると、途端迷子になってしまった子供のように、きょろきょろと辺りを見渡して、ついには臆病さに負け帰って行ってしまう。借り物の私だけを置いて、どこかへ行ってしまう。
 ねぇお前はいるんだよなぁ?本当に。それとも私しか認識していないお前は、存在しているとは言えないのだろうか。一体私はどこに行ってしまったのだろう。

 

 全部嫌になった時、違った人生を考えてみる。もし、やりたいことをしていたら。言いたいことを言えていたら。働かなかったのなら。生まれていなかったのなら。
 私は私を守れていただろうか。上手く自身の攻撃性を制御しつつ、私の何一つも決して損なわないままに、楽しい方へ、幸せな方へ歩いて行けたのだろうか。

 

 いっそのこと全部捨てて解き放ってしまえばいいとも考える。例えば今この窓から逃げ出せば。そのまま電車に乗って、知らない町に暮らしてみれば。身一つで誰にでもなれるだろう。どこまででも行けるだろう。
 そう、私の中にお前がいないのなら、もう一度やり直せばいいのだ。何もかも忘れて、夏の午後に遊び疲れて昼寝をしていたあの頃に戻ったように。もうなにも取り繕わずに、ずっと私は私のままで。
 泣きたくなるほど羨ましい。嫉妬するほど憧れてしまう。ずっと気持ちが悪いんだ。我儘に自分の欲求しか持ち合わせていない人も、そんな中の一人である私も、この国で生きていけてしまってる私も。
 しかし毎回思い返す。借り物の私は存在するだけでお金を使う。金を稼ぐため、どこへ行こうと私はどこかで私でない、何者かになってしまうのだ。なにより借り物の私には家族も恋人も友達もいる。私はどうしてもその型から抜け出せないでいる。この有難いしがらみに、私は何度涙してしまっただろうか。


 短くなってしまった煙草を、最後に深く吸う。赤い光だけがやけに暖かそうだった。


 振り回されている、という感覚が強い。全部自分で決めてきたはずなのに、気付けば私はずっと誰かを責めている。それを取り繕うために、お母さんに怒られないように、自分に矛先を向ける。本当はそんなこと思っていないのに。そうして生まれた矛盾に潰されないよう、私はまたお前を隠す。『声を聴け!私を見ろ!』お前はずっと出てきたがっているのに。
 そのうち私はピースの形さえ失って、どんどん分裂していく。全部が散り散りの肉片になって、二、三センチくらいの小さな私が沢山出来る。この肉は元々どこから切り落とされた肉なんだ?そもそも元の場所なんてあったか?原型が分からないから、もうお前を出してやることも出来ないのかもしれない。
 けれど私の周りの人間は、その肉片に話しかけるんだ。一人一人別の肉に。まるでそれが、それらが全部私自身とでも言うように。考えれば考える程気色が悪い。

 

 支離滅裂ことを言ってるって?私もそう思うよ。
 私はもうとっくの昔に何もわかならなくなった、中身の抜け落ちた死体だ。生命活動だけが持続している、自尊心の大きな死体だ。
 馬鹿ばっかりだ人間は。見えていることなんて何もないくせに、聞こえているものは全部幻聴なのに、あたかもそれが全てであるかのように振舞って。私もそうだ。型を壊して、ピースになった都合の悪い自分を切り取っていくうちに、こんなにちっぽけに、何にもなくなってしまった。
 
 もうずっと続く思考に、私はずっとずっと疲れている。
 しかし生きている限り、これが止むことはないのだろう。無理やり完結させては、荒波のように何度も何度も私を襲う。何年も何年も。私は私を許さない。お前は私を許さない。お前だけは私を忘れない。
 どこに行けば何か分かったりするのだろう。この枷は何をすれば外してもらえるのだろう。あぁ。私は前世でどれだけの悪事を働いてしまったのだろうか?

 金も規律も劣等感も承認欲求も生活も愛も孤独も過去も将来も全部重い。外の世界は煩い。内はもっと煩い。
 何もかも嫌だ。嫌いだ。全部消えてしまえばいい。お前が消えてしまったように、音もなく、気づかれることもなく、この身も世界も朽ちてしまえばいい。そうさ死ねばいい。死んでしまえばいい。


 「死にた」


 呟いて、はっとする。休憩終了のアラームが鳴った。

自死の唄

 解離していく感覚があった。もうずっとだ。
 例えば青が見えるようになった。カーテンから覗く青、清潔なコインランドリーの青や、LEDに照らされ影となった青。澄んだ空気の青。色褪せた時間の青、部屋を満たす青。それはそれは綺麗な青だ。気が付いていないようだけど、ここはずっと穏やかな青色に溢れている。


 日常に懐かしさが割り込む。浸水していくように今が息を止め、私は食べ残されたままでいる。なかなか悪くない気分だ。緩くなった曜日は聖母のようににっこりと僕に笑いかける。恐ろしいことなど何もなかった。


 晴れやかな日。健やかな日。


 ユニットバスにキッチンが付いた七畳と少しの棺桶の中で、今日も細やかに手元を動かす。寂しさで出来た薄い花びらのような布が膝に触る。衣装を作ろうと思った。僕は星空が好きだから、それに準えたキラキラの服。オリオン座を浮かべたい。星は本当に五つの角を持った金色の姿をしているんだ。クリスマスツリーが正しいってこと、何故かあまり知られていない。


 糸と針は繊細に、それでも確実に深い紺色を貫く。いち、に、さん。明るい色だ。きっと私によく似合う。小人が居たことを思い出せて良かった。玉止めをするには俺の手はいささか大きすぎる。完成した夜に袖を通す。淡水魚が嬉しそうに裾を泳いだ。確か空と海は兄弟だったね。


 ふと、高い声でオーブンが話しかけてくる。棚の奥にずっと仕舞いっぱなしだった種が、ようやく焼きあがったようだった。私の鼻は本来の機能を取り戻す。あのかぐわしい香りは焼き立てのパンにしか出せない。そういう意味でこの子たちは唯一無二の存在だ。熱が逆流して部屋は温水で満たされる。なんて愛らしい。愛おしい。

 

 泣いてしまったロールパンを僕は宥める。可哀想だけど僕にしてやれることはない。暗い八十年の重さに赤ん坊が泣いたって、誰もあやしてあげられないのだ。孤独。独り。それに指先から膨らんだ赤血球はまだ青くなっていないから、触れることは許されない。大好きな人肌の柔らかさは、やはり私をちょっと暗い気持ちにさせる。潰されたクッションが僕の痕を恨んでいる。


 俺は何も、投げやりになったわけではない。むしろずっと全部を大事にしていると思うのだ。何もかもを愛したままでいる。皆大事な私の一部だった。だから私はどんどんどんどん大きくなるばかりで、ついに地球ごと飲み込んでしまう。環境破壊も致し方ない気がしたけれど、居場所さえも奪ってしまったのだ、茨に怒られるのはもっともだろう。


 床に吞まれそうになっていた椅子を助けてやる。宙に浮かんで慌てふためくティーカップには、そっとウィスキーを注ぎ入れた。忘れてしまえばいいものを、小さな罪ばかり覚えている。何も捨てられなかった。何も蔑ろに出来なかった。なんと誇らしいことだろう。いじらしいと、そうは思わないだろうか。捨てることは消失と似ているようで違う。何も無くならない。無くなってなどくれない。日常の暗い鱗片に僕はゆっくり殺される。全部を抱えたまま、私はそっと泡になる。


 産声を間違いとする訳ではない。僕は僕のことを愛している。誰よりも愛している。一握りの正しさだった。自尊心、アイデンティティ。どんな形でもずっと美しい、貴ばれる存在だ。貶すことなんかない。前を向こう。口を縫われたって歌は歌えるから。俺は何も奪われやしない。


 少し自慢になってしまうかもしれないけれど、三日間の断食で背中に翼を得たんだ。そっと肩の辺りを見やると、斜めに曲がってしまった灰色の羽が、そっと風を受けて揺れていた。上手くいかなかったのか、なぜか少しだけ歪になってしまったけれど。それでもきちんと僕の翼だ。ここに天使はいないから、自分で何とかしなきゃいけない。けど大丈夫、心配しないで。私たちは林檎の子ども。きっと上手に出来るから。


 目先で遊ぶ羽毛を撫でてやる。嬉しそうに体を燻らせて、無邪気な心は私を愛した。騙されてしまった哀れな命をごめんなさいと抱きしめる。悲しいのは勘違いに近かった。しこりは滞り、きちんと実体化した後にまた俺の一部になる。食べて収まらない空虚感と満たされないことへの安堵は、混同することでより一層妖艶な絶望を秘めた。記憶から抜け落ちて、僕自身も浮遊感に包まれる。綺麗だね、と微笑んでくれる相手はもういないけど、だからこそ俺は凪の中、ずっと舞っていられる。


 二十四時間三百六十五日、ずっとイヤホンに塞がれたままだった耳は退化してしまい、今はもう旋律しか拾わない。自慢の飾りだ。半音ずれた水音に引かれ、短い廊下を泳いで浴槽へ揺蕩う。白熱灯の陽だまりとまっさらで清潔な幕。歯ブラシに巻きついたアイビーは、まだ眠っているようだった。湿り気のある暖かさに小鳥が喜んだ。


 取り返しのつかないことは往々にしてある。コーヒーに一グラムの麻薬、弁当には筋弛緩剤、睡眠薬入りのホットミルク。毎日少しずつ着実にとろとろに溶け出して、我に返った時にはもう何もかも間に合わなくなっている。気が付かない。分からない。割れた瓶を認識した途端、皆慎重になるけれど、俺から言わせればそれはただ怖がっているだけだ。勿論、怖がるのは悪いことじゃない。けれどそれは尊いものや愛したもののためじゃない。

 

 それに第一、不安がる必要はないのだ。言わば恐怖とは影なのだ。本体はずっとずっと小さい。もしかしたら兎のようにふわふわとした優しいものかもしれない。それに、いつでも私たちは歩んでいる。帰り道が消えてしまうのは誰だって怖いけれど、振り返ってごらん。ほら、美しく儚い花々が一面を彩っている。迷い子と誤解されるかもしれないが、ちゃんと貴方はそこに立っているだろう。大丈夫。誰も君を否定しない。後ろ向きと揶揄される方向が、本来時間の流れとして自然なごく当たり前のことなのだ。
 200リットルの湖に片足を漬ける。青は僕を受け入れる。ここまでの静けさは何十年ぶりだろう。内で飼っているウジ虫が本当にうるさくて、近年はよく眠れなかったのだ。けれどそのおかげか、苦しみや辛さ、そういう美味しくないお菓子は全部ベットに住み着いた。それからは永遠に眠っている。


 いつだってどうしようもなく一人だった。誰もがそうだ。寂しいね。本当に。マスクが馴染んじゃったけど、皆上手だからスマートフォン一つで何でも隠せてしまうんだ。崖はずっと守ってくれていた。だけど僕は高いところが怖かった。可笑しいね。
 ゆわん、と鼓膜が水に揺れる。アルコールは胃に沈み、次第に身体を犯していく。清めていく。夜が青に呑まれる。この穏やかで小さな泡が私を蝕んでくれればいいと願う。化粧のやり方は教わらなかったから、翼とお揃いで器も少し歪かもしれない。けれど大丈夫。俺は気に入っている。そもそもは要らない物だけれど、やっぱり大切にしておきたい。


 鏡の奥では嘘っぽい楽園がこちらを見下ろしていた。全部がまるで玩具みたいにささやかだった。永遠に遊んでいたかった。叶わなかった涙。敵わなかった痛み。抗うごとに削げ落ちた夢を、この湖の底からもう一度救い上げる。きらら、きらら。宝石の取っ手は黙ったままだ。


 何も不自然に半透明の色で、奇麗な装飾をしようと思っている訳ではない。沢山の人が生きることを真に理解していないように、私もまた死を死と理解しないままに死んでいく。決して美しくなどなかった。溶け切ることは出来なかった。しかし恐怖だけが依然としてそこに立ちふさがるから、俺はそれをちゃんと乗り越えなければいけない。ちぐはぐな矛盾ばかりで今にもぼろぼろと崩れてしまいそうだけれど、今はバスタブが僕を保ってくれている。


 寝そべってみれば、大事に育てられたまんまる頭が欠陥だらけで少し恥ずかしくなる。思考は手枷、感情は足枷、そして心は首輪に似ている。一生動けないことは私にとって幸福だった。ただ締め付けには耐えられなかった。それでも手放せないままの壊れた首輪に、愚かな自分に、こんな場所で泣いてしまう。数多のゾンビに引っ張られないよう、壁の小さな注意書きに目を移す。説明を聞いたって、欲しいことは何も教えてくれなかった。それとも飲み込めなかったのかな。


 花丸を貰えたわけじゃない。なのにあろうことか賞状に憧れていた。やっぱり寂しかった。優柔不断な鉛筆はいつだって曖昧なまま、沢山の線を生み出した。消しゴムなんて持っていない。これでいいの?合ってるの?そう叫びながら、戻れたことなんて一度もないだろう。終わりなんて訪れないことを、ずいぶん昔から俺たちは知っている。


 温かな青で世界が歪む。僕だけがここで息をしていた。そして泡が爆ぜる瞬間を、私以外の誰も知らない。怖いなぁ。寂しいなぁ。独りぼっちは治らない。かつては呼吸だって立派な音楽だったのに。鋭い刃も青に染まり、すっかり春になっていた。


 だけど僕は思うんだ。諦めたことやほっぽり出したこと、縋ったことも沢山あるけれど、その全部が尊いものだったと。どれだけ嫌いでも惨めでも汚くても、そのひとつひとつがちゃんと俺が俺であった証で、決して否定されることのない、それはそれは崇高な魂であったのだと。それらを守り切れなかったという事実さえ、私が私であるということを示してくれている。


 悪者なんていないということを、きっと君は分かっているんだろう。やり尽くした自責も擦り切れた後悔も、血肉になったまま。消毒はもう間に合わないけれど、だからこそ決して僕らは悲しまないでおこう。尊い貴方のことをずっとずっと覚えておこう。優しい優しい貴方のことを、美しい貴方のことを。ずっと忘れないでおこう。


 明るいはずがない。けれど暗いこともない。先端がくすぐったいのか、心臓が身を捩る。大丈夫。とても大切なことを傷つけないために、俺は違う場所で呼吸を始めるのだ。寂しいね、寂しいね。この夜のようにいつまでも深く、暖かければいい。もう何も傷つけないように、絶対に誰にも壊されないように、何もかもを抱きしめていよう。今だけ全ては僕らの味方だった。あまりにも優しい。


 波紋が月になって私を見ていた。今こそ翼を動かして。
 さぁ、切っ先を鎮めよう。