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色んな文章の倉庫です。

ワンルームエンジェル 感想

「分かってもらえている」という感覚はいつだって人の救いになると思う。

同時に「想ってもらえている」という感覚も。

 

他者を理解するのは簡単なことじゃない。

なぜなら私達は全員、自分から見た世界しか味わうことが出来ないからだ。

 

そもそも忙しさを理由に、私達は自分の気持ちだって理解していないことが多い。

本当は悲しいだけなのに、隠すみたいに罵声を浴びせてみてみたり、寂しいだけなのに誰かの上に立とうとしたり。

行動できてしまう私達にとってむきだしの想いを自覚することは面倒だし、億劫だし、何より弱点をつかれるようで怖い。

 

ただ、自分の気持ちすら理解できない人に、他者の気持ちが理解できるはずもない。

ここが他者を理解するための第一関門だ。

 

そして本当に他者を理解したいのなら、自覚した自分自身の気持ちをひとつ残らず切り離す必要がある。

他者の世界を見ようとする時に、自分の世界は邪魔になるから。

これがきっと第二関門。一番難しくて一番重要なことだと私は思う。

 

それが出来たら、出来たと思えたのなら、次の段階。

嬉しいだとか悲しいだとか感情の種類はもちろん、そこに至るまでに相手がどういう経験をしたのか、何を感じたのか、そこにはどんな記憶が混ざっていたのか。

その湿度は、色は、匂いはどうなのか。彼、彼女はその先に何を願っているのか。

 

その全部を考える。確かめる。想像する。感じる。感じる。

それができたと思えて、初めて相手の気持ちを、他者を、ほんの少しだけ理解することが出来たと言えるんだと思う。

それでもずいぶん、曖昧ではあるけれど。

 

しかし方法が何となく分かったところで、言わずもがなこれだけのことをするにはそれはもう物凄いエネルギーが要る。

そして行動面でも心理面でも何かと忙しい人間に、そんな時間は、容量は与えられていない。

 

だからきっと、現実的に他者を理解するなんてこと、人間には不可能なのだ。

…ゼロの状態で、相手の気持ちが流れてくる天使でもない限りは。

 

そんな天使に対して何かを与えることができたのは、彼自身が長く時間をかけて第一関門を突破していたから、あるいは嘘を吐くような器用さが無かったからだと思っている。

もし彼が日常的に嘘を吐いて人間と混ざっていたのなら、天使の言葉もそこまで彼の胸に沁み込むことは無かっただろう。

 

共鳴しても負担じゃない。ズルさ、よこしまさみたいな、人間特有のアクがない人。

 

嘘を言えないその素直さが、他者の言葉をきちんと受け取ることを可能にしたのだ。

結果、彼は天使に分かってもらえた。与えられた。

 

しかし彼は人間だから、天使の感情が流れてくることはない。

せいぜい彼が分かるのは羽の状態だけ、マルかバツか、ただそれだけだ。

相手を大切にする方法はたくさんあるけれど、誰も正解を教えてはくれない。そもそもそんなもの、無いのかも。

 

だから彼は考える。

大事なことは後に伝えるべきなのか、先に伝えるべきなのか。

笑ってもらうためにどんなことをすればいいのか。自分という存在が彼にとってどうなのか。

 

迷って、考えて。迷って、考えて。

 

正解の分からない彼には、考え続けることしかできない。

けれどその思考した時間や気持ちを愛と呼ばずに何と呼ぶのか、まだ私は知らない。

 

愛。想ってもらえている感覚を天使はそのまま享受して、羽を育てたのだ。

そもそも「もっと笑って欲しい!」だなんて、そんな分かりやすい愛に名前を付ける必要もない。

 

ずっと二人に嘘はなかった。

だからこそ天使は天使に成り得たし、二人は出会わせてもらえたのだろう。

 

思うに、生きる上では誰かが隣にいた方が、十分に暮らせる。

もちろん一人でも生活はできるけれど、食べなかったり、眠らなかったりしてもとがめる者はいない。悪い夢にうなされたことだって、自分しか知り得ない。

食べたり眠らなかったりしても多少は生きていけるけど、やっぱり不健康だし、きっと寂しい。

 

きっと存在意義を成すためには、与えるだけでも、与えられるだけでもいけないんだろう。

けれど一人で向き合って、じっと耐えた人でないと、本当の意味で誰かを愛することは難しい。第一関門。

だから仕方なく私達は対象を分けて、存在意義を作ってみたりする。

S君に与えて、けれどS君は同じものを返してくれないから、それを補うようにCちゃんから与えられて。

CちゃんはF君から。F君はNちゃんから。

 

人間は何となくそれで廻っているし、悪いことじゃない。

けれどその相手が互いだったのなら、きっとそれはとても幸せなことなんだろうなあ。

 

アカウントを覗き見て、天使が天使になる前に幸せになれなかったのかなとも少し考えた。

けれど、それはそれで余計なことだと思う。なんというか、失礼な思考だ。

 

本当の救いを、愛を知っているこの二人が今も空で楽しく暮らしているのなら、きっとそれが幸せの形なんだろう。

 

愛して、慈しんで。

いつか誰かとそうできたらいいと、ズルい私は飛べないままに願うばかりだ。

 

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妖精の休息

 霧雨が木々を濡らす。水滴が葉に擦れ、深い緑の香りが際立つ。静寂だけを閉じ込めたような空間だ。
 この森に生き物はいない。全ての生き物はまだこの森の存在を知らなかった。
 
 そんな森の最深部、一際大きな楠に背中を預けて座り込む少女の姿があった。熱に浮かされたようなその瞳は碧く、うっとりと虚空を見つめている。少女は少しの間雨を凌ぎに来たようだった。
 
 彼女のほっそりとした身体は、ボリュームのあるチュールドレスで飾られている。ドレスにあしらわれた柔らかな桜色は、裾に行くほど力強さを増す。そしてその終着点であるかのように、裾からは深紅のヒールが覗いていた。

 氷のように透明な輝きを放っている小さなティアラを、白く細い手で正す。僅かな狂いも彼女には許せないようだった。やわらかなミルク色をした髪は、軽くたゆみ、その長さは少女の肘にまで達している。
 その全てがまるで彼女のために存在するかのように、彼女の儚げな美貌を一層際立たせていた。
 

 しかし、その容姿を実際に確認したものはいない。
 彼女は人の目に映らない。

 
 彼女は上機嫌でしばしの休息を楽しんでいた。

 彼女に愛する者はない。また同時に、彼女を愛する者もいない。それは幾千年も前から変わらないことだった。


 かつて彼女は自身の境遇を憂いたこともあった。
 外界と全く繋がりを持つことが出来ないことから、自身の存在すら懐疑的に思えたのだ。
 自身にしか認識できないものが、果たして存在していると言えるのだろうか。

 それは永久に答えの出ない、哲学的な問いのようにも思えた。
 しかしたとえ彼女が誰の目に留まらなくとも、確かに彼女は自身の碧い瞳でこの世を見ていた。野花の香りをかぐことも、小鳥のさえずりを聞くことも出来た。空腹になれば、好みの味をした木の実を選んで食した。
 そして何より、彼女には思考する頭があった。死ぬことも出来ないたった一人きりでの生を嘆く心があった。

 

 伝えられない想いなど生まれる必要はない。それが彼女の考えであった。受け止める者のいない、にも関わらず溢れてしまう感情はただ彼女を苦しめるだけだったからだ。
 多くの人がそうであるように彼女にとってもまた、ただ生きるだけの生は自身に何の意味ももたらさなかった。それを自覚した時、彼女にとって彼女は最も要らない存在となった。

 

 そうしてただ蓄積され続ける思考は、あまりにも切実で率直すぎるものだった。彼女は自身を見つめすぎたのだ。
 心が何かを想う度、それは自身への叱責に近い問いになって返ってきた。それはまるで己の身を切り裂いてくるような、重く、ひたすらに暗い衝撃。

 

 何度も死を受け入れた。しかし死はその度に彼女を拒んだ。

 

 彼女の声は誰にも届かない。彼女が抱きしめられることはこれから先も絶対にない。完全に遮断された希望とは裏腹に、いつも未来だけはよく見えた。
 ぬくもりすら知らぬまま、どうしてこの冷たい世界を生き抜けるというのだろう。この無用の長物は、一体いつまで呼吸を続けるのだろう。

 

 擦り切れる程繰り返された絶望は、次第に諦観に変わった。彼女は覚えていないだろうが、おそらく彼女の精神はこの時最も死に近い場所に居たのだ。

 

 なぜ自分に脳を授けたのだと、彼女はついに神をも憎んだ。
 プランクトンのように、ただ生命活動を続けるだけの肉塊であればどれほど楽だっただろう。もし考えることも感じることも出来なくなれば、私は何億年でも何兆年でも喜んでこの世に留まっていてやるのに、と。
 心も頭ももう愚図になってしまった。刺激に対してうるさく喚くばかりで、おそらく正しい役割を果たしていない。欠陥品である。神は取り替えてすらくれないのか。
 勝手に私をここに宿したのに。
 
 それは数少ない彼女の転機だった。彼女は自身が生まれることを望んだわけではないということを、唐突に思い出したのだ。同時に今まで自身に向けられていた感情が、初めて他の物にぶつけられた。

 

 彼女は長い間苦しんでいた。この世のあらゆる痛みと苦悩は味わいつくした。吐き気を催すほどの寂しさにも、立てなくなるほどの恐怖にも出会った。ずっと一人で対峙した。
 そしてそれら全てを甘んじて受け入れていた。
 時には自身を敵に回してまで、この苦境を飲み込み、吐き出さないようにずっと我慢していた。

 何故だ。
 何故、何故私が、私だけがこんな目に合わなけれならないのだ。
 
 そこで彼女は気づく。彼女は怒っていた。そう認識した途端、何千年もの時間をかけて熱された怒りは一気に火を噴いた。
 それはある意味で運命からの解放だった。強い快感とエネルギーの中、彼女は彼女の中の何かが急速に晴れていくのを感じた。
 彼女の身に起きる全てのことは彼女のせいではなかったし、受け入れるかどうかは彼女の自由だったのだ。そしてそれはきっと初めから、生まれた瞬間から許されていた自由だった。

 

 そう、彼女は自由だった。皮肉にも繋がりを有さないことは彼女に翼を持たせた。
 誰一人彼女を止めることは出来ない。何にも捕らわれることのない彼女は、何処まででも飛んでいけたのだ。

 

 そしてそれに気が付いた時、彼女は最早独りではなかった。強大すぎる憤怒と激昂の中、とうとう寂しさをも忘れてしまったのだろうか、いや、そうではない。

 

 彼女はたった一人で孤独に打ち勝ったのだ。忘れてしまうほど遠い過去はそれでも蓄積された。怒りの翻弄などもろともしない程、それは力強く堅実に、彼女の中に存在していた。それら全てが彼女を彼女たらしめた。

 

 今や彼女は己を確立させることに成功し、自身の全てを完全に掌握していた。

 
 目の前の濡れていく芝を眺め、彼女は抱くようにして肩に立てかけていた猟銃に頭をもたれかけた。
 繊細な髪がその煤黒い銃身を覆う。

 
 彼女はその猟銃をいつも側に置いていた。

 

 移ろう時代、巡り廻る時間の中、彼女はずっと人間たちを見つめていた。
 彼らは蟻と同じく、群れの中でしか生きられないようだった。

 

 人間たちは彼女が欲した全てを持っていた。
 声を出せば反応はどうであれ、他者が反応する。何をするにも誰かと関わる必要がある。一人で生きている人間は彼女の知る限り、ただの一人も居なかった。
 それが自身の運命と同じく人間にとって強制的なものであったとしても、彼女にとっては泣きたくなる程羨ましいものだった。
 
 しかし、今の彼女はその中に入ることを夢見ている訳ではなかった。

 

 いつ頃からかはもう覚えていないが、ある時から彼女にはある種の人間の声が聴こえるようになった。
 それはかつての彼女の声だった。
 強烈な孤独と、決定づけられた生殺しのような行く末に緩やかな絶望を覚え、跳ね返るような自身の言葉を制御出来ずに絶えず自傷を続ける者たち。

 

 彼女に言わせてみれば、何故意思疎通の叶う中でそんな声を発しているのか、不思議で仕方なかった。仄かに贅沢にも感じた。
 しかし直ぐに考え直す。彼らもきっと自身と同じ。ただ与えられた肉体が人間であっただけなのだ。
 その苦痛と哀しみは生の通過点であることを、彼女は知っていた。しかし、数千年もかかる通過点だ。

 可哀想な人間達。その苦しみを凌駕するには到底寿命が足りないだろうに。


 何でも成せると知ったその時から、彼女はその猟銃をいつも側に置いていた。


 まるで抱きしめるように猟銃にすり寄り、彼女は口付けを落とす。
 その様子を眺めるかのように太陽が顔を出した。たちまち暖かな陽ざしが辺りを包む。なおも注がれ続ける雨は光を受け、生きたように輝く。


 今まで幾人も人間を殺めたその猟銃は物騒で不格好ながらも、不思議と彼女の美しさによく馴染んでいる。

 彼女はいつも遠くからその銃を構える。決してその身を汚さない。
 
 彼女の声も体温も伝わらなかったというのに、鉛玉だけはどんなに遠くからでも心臓に直接届いた。偶然の悪戯か、銃声だけが彼女を肉付け、奪ったものが彼女の生きた証となった。

 

 しかし彼女はもうそんな物を望んでいない。

 

 彼女が引き金を引くのは自身の居場所づくりためではない。自身と似通った欠陥品の脳を持ちながら脆弱な身体に生まれついてしまった悲劇の魂のため、そして僅かな悦びのためだった。

 

 彼女は彼らに心から同情していた。それは彼女が身をもってその苦心を誰よりも理解していたからだ。
 そしてこの世から可哀想な声の主たちを解放することは、あの表現しようのない快感をなぞることに近かった。

 

 無邪気な妖精のように、雨に酔いしれ、快楽に遊ぶ。
 彼女は彼女自身という、何もかもを凌ぐ強い力を手にしていた。

 

 彼女こそが彼女の神だった。真の神だった。

 

 彼らが自身の餌食になることを夢見ていると、彼女はそう信じて疑わない。そしてそれは孫うことなき事実なのだ。


 さぁ、愛しく愚かな人間よ。
 泥のように粘着質な痛みが、出来るだけ長引かないように。
 たった一人で立ち向かわなければならない夜が、なるべく少なくて済むように。
 魅力的だろう?その脳に、その胸に、小さな鉛の餞を。
 

 雨が止んだ。視界は良好だ。

懺悔

 物心もつかないうちから、私には虚言癖がありました。
 嘘をつく相手は母です。私は家に帰るなり、友達に虐められたと話して泣きました。その友達は嫌な奴で有名でしたし、事実その後にいざこざがあった記憶もありますが、当時虐められたという事実はありませんでした。
 しかし母は私の言葉を信じ、その友達に対する怒りを露わにしました。そして私を慰めてくれました。同様に、実家に遊びに来ていた祖母も一緒になって怒り、慰めて くれました。

 罪悪感などありませんでした。私はその時本当に悲しかったし、演技ではなく泣き喚いていたのですから。嘘を重ねるうちにそれが現実のように思えたのか、慰めを求めて嘘を付いたのか、今となっては分かりません。いや、その両方なのでしょう。
 その時母と祖母は確かに私を見ていました。私だけを見ていました。私によって心を動かされ、奥底から優しく、そして暖かく接してくれました。それはそれは心地の良い時間でした。そうする内に、嘘は私の中で事実となったのです。咎める者も特にいませんでした。誰も虚言に気が付かなかったのです。

 

 友達に嘘を付いたこともあります。しかし母に仕掛ける罠とは少し違います。友達への嘘は、主に自分を誇示するために使用されました。

 

 例えばゲームでの出来事。自分が持つおもちゃの事。私は虚言癖を持ちながら、同時に極度の腰抜けでした。また、浅く速く回る頭を持っていました。ですから、幼稚園に直接関係のない母には大胆に作り話を披露したにも関わらず、友達に対してはバレても差し支えのない嘘しか用意することが出来ませんでした。しかし、注目を集めるにはそれで十分でした。そしてまた、その嘘も自分の中でだけ、事実と変貌していきました。

 

 年を重ねるごとに、この虚言癖はなくなりました。嘘は長くは続かないし、リスクも高いことを悟ったのかもしれません。少ないにしろ罪悪感を覚え始めたことも理由の一つでしょう。

 

 代わりに私は私を色々な所で誇張し始めました。今思い返せば、私はとにかく認められたい、褒められたいという欲求が人一倍強かったのでしょう。

 

 成績が良ければ自慢に聞こえない程度に記録だけを伝達しました。運動など、苦手で上手くできないことには触れさせません。また、私は小説が好きでした。これも小学生が大人たちから賞賛を得るには都合のいい趣味でした。ついでに漫画を読まないことも併せて周りに伝えます。少しでも他人より上手くできると思ったものは。オブラートに雑に包みどんどん自慢しました。
 今思い返してみれば裏で疎まれていたのかもしれませんが、そんなの関係ありません。上辺だけの羨望も、私にとっては貴重な酸素だったのですから。

 

 偉いや凄いではなく、大人だとか賢いだとか、そういった言葉が私にとっての最上の誉め言葉になった頃、私は母の変化に気が付きました。ある日、気が付けば母は鬱陶しいような目つきで私を見ていたのです。

 

 その頃の私は少し欲張りすぎていました。テリトリーを広げ過ぎたのです。しかしそれも仕方がありません。大人から捧げられる「大人だね」という烙印は当時の私にとって、紛れもない極上の品だったのですから。そして私の周囲にいる大人は父と母、二人だけ。もっと欲しがってしまうのは必然です。だって私はまだ子供だったのですから。

 

 そういった理由から、私は不意に始まる母の井戸端会議にも進んで参加し自身を誇示しました。私は知らず知らずのうちに母の領域まで犯してしまったのです。
 そんな様子の私を見て、母は私の醜い魂胆に気が付き始めたのでしょう。そして私に憎悪を見せた。それも当然です。むしろ母は踏みとどまった方だとすら思います。自分が腹を痛めて生んだ子が、こんな狡さと卑しさの塊であると知ったのなら、私であれば正気でいられる自信がありません。

 

 母のやっかみの籠ったその瞳を通して、私は等身大の自分を触りました。初めて鏡を見せられたと言っても過言ではないでしょう。それは長い間見ないようにしてきた自身の醜悪な部分でした。あぁ、そうか自分はこんなにも酷く歪み切った人間だったのか。
 私はひたすらに動揺しました。私自身、取り繕って着飾った私のことしか今まで知らなかったのですから。そして思いました。こんなにも汚らしい人格を他者に悟られてしまったら、私はもう褒めてもらえない。褒めてもらえない。それは私にとって息が出来なくなることと同義でした。何より母に完全に軽蔑され、背を向けられてしまうこと。これが最大の恐怖でした。

 

 思うに、両親への執着は人が皆最初にかけられる呪いです。先程も言ったように、私はとにかく認められたい、褒められたいという欲求が人一倍強かった。それも母だけでは補えない程に。その母さえ失ってしまったら私はもうお終いです。かと言ってこの欲求はもう収まらない、抑えようがないものだということは、本能が叫んで知らせていました。
 私は今まで通りに過ごすことを決めました。見ないふり、知らないふりは十八番だったではありませんか。見栄えの良くない花は並べなければいいのです。奥にしまい込んで、誰にも見せなければいいのです。簡単なことのようにも思えました。
 しかし案外己が脆いことを、まだ私は分かっていなかった。

 

 あの時から、私は私のことが嫌いでした。ずっとずっと嫌いでした。

 

 ひた隠しにしてきた都合の悪い己は認識したが最後、もうどうしようもないほど肥大化し、それ自身が叫び続けています。「私は凄い人間なのだ。褒め称えられるべきなのだ。」
 
 幼稚園は行きたくありませんでした。小学校に行く時も泣いていました。寂しかったのです。家以外では、私は私が分からないから。ずっと私を祭り上げていてほしかったのです。唯一無二の存在だと。どこか特別で、聡い子であると。世界中の人に私だけを見ていてほしかった。
 結局悪戯に称号を誇示することでしか、そんな恥を晒すような方法でしか私は私の居る場所を守ることが出来なかったのです。

 

 身体だけが大きくなり見える景色が変わっていくにつれ、もう小さい頃とは勝手が違うのだと私は唐突に自覚しました。いい子でいても褒めてはくれないのです。成績が良いだけで崇められることもなければ、頭を撫でてくれる人さえもういないのです。
 しかし根本的に、私は何も変わっていません。少し長く水中で息を止めることが出来るようになっただけで、酸素が必要なことに変わりはない。今でもずっと私は他人の憧れになること、私という存在、それ自体が褒め称えられることに飢えているのです。
 「私は素晴らしい子供だった。何処か他の子とは違った子供だった。」
 そんな風に小さな頃もらった薄っぺらい勲章にずっとしがみついているだけの、何もかもが剥がされたちっぽけで醜い、今にも死にそうなミノムシが紛れもない私なのです。

 先日不意に赤ん坊の頃の写真を見たとき、私は思わず泣いてしまいました。
 そこに映る両親はあまりにも幸せそうだった。その当時のまま時間が止まれば、私はきっとずっと幸せだったのでしょう。
 赤ん坊の頃の私は、私が己に泥を塗りたくってまで欲した無条件の愛を、一身に受けていたのです。ベビーベッドに横たわり、少し微笑むだけで、皆に幸せを与える存在だったのです。

 

 自身を騙すことにはやはり限度がありました。何度も何度も私は私を殺してやりたいと思いました。
 偽りと共に生まれた私は、何年この世に留まっても欺くことしか出来なかった。しようとしなかった。その事実に悲しむことさえ、もう疲れてしまった。この生き癖はカビのように染みつき蔓延って、もう更生の余地はありません。何から何まで間違いだった。


 死にたがりは生の代償です。生まれたこと自体が罪だったのです。

 

 それ故に今ではもうずっと、ただただ申し訳がない。生まれたことに対しての謝罪が止まない。私は生まれてからずっと私を含め全員を欺いていたのですから。

 

 同情を買ってごめんなさい。賞賛を搾取してごめんなさい。甘い蜜だけを吸ってごめんなさい。こんな私でごめんなさい。騙してごめんなさい。そしてこれからも騙し続けてしまうことを許してください。もうそれしか生き方が分からないのです。ごめんなさい。ごめんなさい。

 

 こんな私にはもう何も望めない、望んではいけないのです。ましてや他人に何かしてもらおうなど言語道断です。
 私は戦わなければなりません。そして慣れなければいけません。どうしようもなく劣悪な欲求と、この息が詰まるような生に。
 内で暴れる獣を水中に沈め、なおも襲ってくるであろう激情に流されぬよう、促されぬよう。目の前にある宝石に目を瞑りただ耐えて耐えて耐えて。
 
 それでもやはり何者にも成れない私が惨めで可哀想で、そんな自分を慰めに現れる私の醜さに、私はまた目を逸らすのです。

希死念慮

 この休憩が終われば、あと一時間と少しで今日は終わる。

 左半身でもたれかかるようにドアを開けながら、ズボンのポケットから携帯を取り出す。アラームを十分後の17:40にセットした。在庫品があちらこちらで影を背負いこちらを見ている。ドアの横にあるスイッチを押して、部屋の一番奥にある窓際に立った。数回点滅した後、白熱灯が部屋を映す。
 
 鞄を探って、潰れた青い箱から煙草を一本摘まむ。指を曲げた途端、水仕事と冬の乾燥で傷んだ皮膚がひび割れた。拭うまでもない血が滲む。
 適当な柄のあしらわれた薄いカーテンを背中に被り、窓を開け、身を乗り出す。この職場で喫煙者は私しかいなかった。冷気が頬を掠める。煙草を加えて、蛍光色のライターで火をつけた。
 

 疲れた、と独り言ちる。特に繫忙期というわけでもないし、目立ったトラブルがあったわけではないが、身体がだるい。頭もずっと重い。

 「あんたもういいわ。」

 先程客に投げられた言葉がふと再生される。喉に濁った空気が張り付いている。

 

 多分、あまりにも数が増えすぎたせいで、人間は一人一人に気を配る余裕などないのだと思う。ましてやこのご時世、他人になんて構っていられないのだろう。個人が個人の中で忙しいし、大変なのだ。自分の言葉を顧みることすら出来ないほどに。
 ねぇババァ、私も他人の言葉一つに気力をつぎ込む余裕は、きっとないんだけど。
 去っていくその老いぼれた背中に笑いかけた私は、さぞいい子に見えただろう。

 

 回り巡る日々の中で、私という人格がどんどん薄められていく気がしてしまう。

 

 元々この国で生まれた私は私のままで生きていたのに、他人と情勢、思考や声に揉まれ絡められていくうちに、その形は歪み固められ、世界にぴったりはまるパズルのピースになった。
 型にも多くの種類がある。絶対に外れてはいけない大きな型は常識といったところか。他には雰囲気とかだろうか。教室やグループが分かりやすい。そして一番小さな型は他者だ。人の数だけ違った世界があり、その一つ一つに型が用意されている。この型には必ずしもピタリとはまる必要はない。しかし、ある程度、そして沢山の数にはまればはまるほど、この国では表面上生きやすくなる。
 この国にいる人は、皆パズルのピースを見ている。その形や絵柄じゃない。ただピースがどれだけ型に一致しているかどうかだけを見ている。

 

 私は多分、もうずっと正解を出し続けている。私の型以外の正解を。

 

 最近、自分の中のよくわからない部分が限界に達しているような気がする。
 時々痛くて苦しくて仕方ない。きっと足元が覚束ないせいなのだ。自分の中にはまる型がないから、根を張る場所を見つけられないでいる。栄養も水も享受できずに、枯渇している。


 向かいに立っているパチンコ屋のネオンが陽気に光る。カラスが二羽、その四角い屋根に止まった。手元の煙がカラスにかぶさる様に燻る。私はただそれを見ている。


 よく私は自分と対話をする。私はパズルのピースなどではないと確認するためだ。
 いつも生きるために型に合わせて変容しているだけで、あくまで表面的な話でいるはずなのだ。私の核はずっと私の中にある。私はここにいる。ずっと私の側にいる。お前の口も耳も手も顔も、とっくに廃退してしまいもうよく見えないけど。

 考えてみると、この頃上手く自分が出てこない。久しく私は私に会っていないように感じる。
 何かしようとすればするほど、何も出てこなくなってしまうのだ。
 様々な矛盾や苛立ちに高ぶって冷めやらない私は、今にもどこかへ駆け出してしまいそうなほど衝動的で強大な力を秘めている。なのに、いざ解放しようとすると、途端迷子になってしまった子供のように、きょろきょろと辺りを見渡して、ついには臆病さに負け帰って行ってしまう。借り物の私だけを置いて、どこかへ行ってしまう。
 ねぇお前はいるんだよなぁ?本当に。それとも私しか認識していないお前は、存在しているとは言えないのだろうか。一体私はどこに行ってしまったのだろう。

 

 全部嫌になった時、違った人生を考えてみる。もし、やりたいことをしていたら。言いたいことを言えていたら。働かなかったのなら。生まれていなかったのなら。
 私は私を守れていただろうか。上手く自身の攻撃性を制御しつつ、私の何一つも決して損なわないままに、楽しい方へ、幸せな方へ歩いて行けたのだろうか。

 

 いっそのこと全部捨てて解き放ってしまえばいいとも考える。例えば今この窓から逃げ出せば。そのまま電車に乗って、知らない町に暮らしてみれば。身一つで誰にでもなれるだろう。どこまででも行けるだろう。
 そう、私の中にお前がいないのなら、もう一度やり直せばいいのだ。何もかも忘れて、夏の午後に遊び疲れて昼寝をしていたあの頃に戻ったように。もうなにも取り繕わずに、ずっと私は私のままで。
 泣きたくなるほど羨ましい。嫉妬するほど憧れてしまう。ずっと気持ちが悪いんだ。我儘に自分の欲求しか持ち合わせていない人も、そんな中の一人である私も、この国で生きていけてしまってる私も。
 しかし毎回思い返す。借り物の私は存在するだけでお金を使う。金を稼ぐため、どこへ行こうと私はどこかで私でない、何者かになってしまうのだ。なにより借り物の私には家族も恋人も友達もいる。私はどうしてもその型から抜け出せないでいる。この有難いしがらみに、私は何度涙してしまっただろうか。


 短くなってしまった煙草を、最後に深く吸う。赤い光だけがやけに暖かそうだった。


 振り回されている、という感覚が強い。全部自分で決めてきたはずなのに、気付けば私はずっと誰かを責めている。それを取り繕うために、お母さんに怒られないように、自分に矛先を向ける。本当はそんなこと思っていないのに。そうして生まれた矛盾に潰されないよう、私はまたお前を隠す。『声を聴け!私を見ろ!』お前はずっと出てきたがっているのに。
 そのうち私はピースの形さえ失って、どんどん分裂していく。全部が散り散りの肉片になって、二、三センチくらいの小さな私が沢山出来る。この肉は元々どこから切り落とされた肉なんだ?そもそも元の場所なんてあったか?原型が分からないから、もうお前を出してやることも出来ないのかもしれない。
 けれど私の周りの人間は、その肉片に話しかけるんだ。一人一人別の肉に。まるでそれが、それらが全部私自身とでも言うように。考えれば考える程気色が悪い。

 

 支離滅裂ことを言ってるって?私もそう思うよ。
 私はもうとっくの昔に何もわかならなくなった、中身の抜け落ちた死体だ。生命活動だけが持続している、自尊心の大きな死体だ。
 馬鹿ばっかりだ人間は。見えていることなんて何もないくせに、聞こえているものは全部幻聴なのに、あたかもそれが全てであるかのように振舞って。私もそうだ。型を壊して、ピースになった都合の悪い自分を切り取っていくうちに、こんなにちっぽけに、何にもなくなってしまった。
 
 もうずっと続く思考に、私はずっとずっと疲れている。
 しかし生きている限り、これが止むことはないのだろう。無理やり完結させては、荒波のように何度も何度も私を襲う。何年も何年も。私は私を許さない。お前は私を許さない。お前だけは私を忘れない。
 どこに行けば何か分かったりするのだろう。この枷は何をすれば外してもらえるのだろう。あぁ。私は前世でどれだけの悪事を働いてしまったのだろうか?

 金も規律も劣等感も承認欲求も生活も愛も孤独も過去も将来も全部重い。外の世界は煩い。内はもっと煩い。
 何もかも嫌だ。嫌いだ。全部消えてしまえばいい。お前が消えてしまったように、音もなく、気づかれることもなく、この身も世界も朽ちてしまえばいい。そうさ死ねばいい。死んでしまえばいい。


 「死にた」


 呟いて、はっとする。休憩終了のアラームが鳴った。

自死の唄

 解離していく感覚があった。もうずっとだ。
 例えば青が見えるようになった。カーテンから覗く青、清潔なコインランドリーの青や、LEDに照らされ影となった青。澄んだ空気の青。色褪せた時間の青、部屋を満たす青。それはそれは綺麗な青だ。気が付いていないようだけど、ここはずっと穏やかな青色に溢れている。


 日常に懐かしさが割り込む。浸水していくように今が息を止め、私は食べ残されたままでいる。なかなか悪くない気分だ。緩くなった曜日は聖母のようににっこりと僕に笑いかける。恐ろしいことなど何もなかった。


 晴れやかな日。健やかな日。


 ユニットバスにキッチンが付いた七畳と少しの棺桶の中で、今日も細やかに手元を動かす。寂しさで出来た薄い花びらのような布が膝に触る。衣装を作ろうと思った。僕は星空が好きだから、それに準えたキラキラの服。オリオン座を浮かべたい。星は本当に五つの角を持った金色の姿をしているんだ。クリスマスツリーが正しいってこと、何故かあまり知られていない。


 糸と針は繊細に、それでも確実に深い紺色を貫く。いち、に、さん。明るい色だ。きっと私によく似合う。小人が居たことを思い出せて良かった。玉止めをするには俺の手はいささか大きすぎる。完成した夜に袖を通す。淡水魚が嬉しそうに裾を泳いだ。確か空と海は兄弟だったね。


 ふと、高い声でオーブンが話しかけてくる。棚の奥にずっと仕舞いっぱなしだった種が、ようやく焼きあがったようだった。私の鼻は本来の機能を取り戻す。あのかぐわしい香りは焼き立てのパンにしか出せない。そういう意味でこの子たちは唯一無二の存在だ。熱が逆流して部屋は温水で満たされる。なんて愛らしい。愛おしい。

 

 泣いてしまったロールパンを僕は宥める。可哀想だけど僕にしてやれることはない。暗い八十年の重さに赤ん坊が泣いたって、誰もあやしてあげられないのだ。孤独。独り。それに指先から膨らんだ赤血球はまだ青くなっていないから、触れることは許されない。大好きな人肌の柔らかさは、やはり私をちょっと暗い気持ちにさせる。潰されたクッションが僕の痕を恨んでいる。


 俺は何も、投げやりになったわけではない。むしろずっと全部を大事にしていると思うのだ。何もかもを愛したままでいる。皆大事な私の一部だった。だから私はどんどんどんどん大きくなるばかりで、ついに地球ごと飲み込んでしまう。環境破壊も致し方ない気がしたけれど、居場所さえも奪ってしまったのだ、茨に怒られるのはもっともだろう。


 床に吞まれそうになっていた椅子を助けてやる。宙に浮かんで慌てふためくティーカップには、そっとウィスキーを注ぎ入れた。忘れてしまえばいいものを、小さな罪ばかり覚えている。何も捨てられなかった。何も蔑ろに出来なかった。なんと誇らしいことだろう。いじらしいと、そうは思わないだろうか。捨てることは消失と似ているようで違う。何も無くならない。無くなってなどくれない。日常の暗い鱗片に僕はゆっくり殺される。全部を抱えたまま、私はそっと泡になる。


 産声を間違いとする訳ではない。僕は僕のことを愛している。誰よりも愛している。一握りの正しさだった。自尊心、アイデンティティ。どんな形でもずっと美しい、貴ばれる存在だ。貶すことなんかない。前を向こう。口を縫われたって歌は歌えるから。俺は何も奪われやしない。


 少し自慢になってしまうかもしれないけれど、三日間の断食で背中に翼を得たんだ。そっと肩の辺りを見やると、斜めに曲がってしまった灰色の羽が、そっと風を受けて揺れていた。上手くいかなかったのか、なぜか少しだけ歪になってしまったけれど。それでもきちんと僕の翼だ。ここに天使はいないから、自分で何とかしなきゃいけない。けど大丈夫、心配しないで。私たちは林檎の子ども。きっと上手に出来るから。


 目先で遊ぶ羽毛を撫でてやる。嬉しそうに体を燻らせて、無邪気な心は私を愛した。騙されてしまった哀れな命をごめんなさいと抱きしめる。悲しいのは勘違いに近かった。しこりは滞り、きちんと実体化した後にまた俺の一部になる。食べて収まらない空虚感と満たされないことへの安堵は、混同することでより一層妖艶な絶望を秘めた。記憶から抜け落ちて、僕自身も浮遊感に包まれる。綺麗だね、と微笑んでくれる相手はもういないけど、だからこそ俺は凪の中、ずっと舞っていられる。


 二十四時間三百六十五日、ずっとイヤホンに塞がれたままだった耳は退化してしまい、今はもう旋律しか拾わない。自慢の飾りだ。半音ずれた水音に引かれ、短い廊下を泳いで浴槽へ揺蕩う。白熱灯の陽だまりとまっさらで清潔な幕。歯ブラシに巻きついたアイビーは、まだ眠っているようだった。湿り気のある暖かさに小鳥が喜んだ。


 取り返しのつかないことは往々にしてある。コーヒーに一グラムの麻薬、弁当には筋弛緩剤、睡眠薬入りのホットミルク。毎日少しずつ着実にとろとろに溶け出して、我に返った時にはもう何もかも間に合わなくなっている。気が付かない。分からない。割れた瓶を認識した途端、皆慎重になるけれど、俺から言わせればそれはただ怖がっているだけだ。勿論、怖がるのは悪いことじゃない。けれどそれは尊いものや愛したもののためじゃない。

 

 それに第一、不安がる必要はないのだ。言わば恐怖とは影なのだ。本体はずっとずっと小さい。もしかしたら兎のようにふわふわとした優しいものかもしれない。それに、いつでも私たちは歩んでいる。帰り道が消えてしまうのは誰だって怖いけれど、振り返ってごらん。ほら、美しく儚い花々が一面を彩っている。迷い子と誤解されるかもしれないが、ちゃんと貴方はそこに立っているだろう。大丈夫。誰も君を否定しない。後ろ向きと揶揄される方向が、本来時間の流れとして自然なごく当たり前のことなのだ。
 200リットルの湖に片足を漬ける。青は僕を受け入れる。ここまでの静けさは何十年ぶりだろう。内で飼っているウジ虫が本当にうるさくて、近年はよく眠れなかったのだ。けれどそのおかげか、苦しみや辛さ、そういう美味しくないお菓子は全部ベットに住み着いた。それからは永遠に眠っている。


 いつだってどうしようもなく一人だった。誰もがそうだ。寂しいね。本当に。マスクが馴染んじゃったけど、皆上手だからスマートフォン一つで何でも隠せてしまうんだ。崖はずっと守ってくれていた。だけど僕は高いところが怖かった。可笑しいね。
 ゆわん、と鼓膜が水に揺れる。アルコールは胃に沈み、次第に身体を犯していく。清めていく。夜が青に呑まれる。この穏やかで小さな泡が私を蝕んでくれればいいと願う。化粧のやり方は教わらなかったから、翼とお揃いで器も少し歪かもしれない。けれど大丈夫。俺は気に入っている。そもそもは要らない物だけれど、やっぱり大切にしておきたい。


 鏡の奥では嘘っぽい楽園がこちらを見下ろしていた。全部がまるで玩具みたいにささやかだった。永遠に遊んでいたかった。叶わなかった涙。敵わなかった痛み。抗うごとに削げ落ちた夢を、この湖の底からもう一度救い上げる。きらら、きらら。宝石の取っ手は黙ったままだ。


 何も不自然に半透明の色で、奇麗な装飾をしようと思っている訳ではない。沢山の人が生きることを真に理解していないように、私もまた死を死と理解しないままに死んでいく。決して美しくなどなかった。溶け切ることは出来なかった。しかし恐怖だけが依然としてそこに立ちふさがるから、俺はそれをちゃんと乗り越えなければいけない。ちぐはぐな矛盾ばかりで今にもぼろぼろと崩れてしまいそうだけれど、今はバスタブが僕を保ってくれている。


 寝そべってみれば、大事に育てられたまんまる頭が欠陥だらけで少し恥ずかしくなる。思考は手枷、感情は足枷、そして心は首輪に似ている。一生動けないことは私にとって幸福だった。ただ締め付けには耐えられなかった。それでも手放せないままの壊れた首輪に、愚かな自分に、こんな場所で泣いてしまう。数多のゾンビに引っ張られないよう、壁の小さな注意書きに目を移す。説明を聞いたって、欲しいことは何も教えてくれなかった。それとも飲み込めなかったのかな。


 花丸を貰えたわけじゃない。なのにあろうことか賞状に憧れていた。やっぱり寂しかった。優柔不断な鉛筆はいつだって曖昧なまま、沢山の線を生み出した。消しゴムなんて持っていない。これでいいの?合ってるの?そう叫びながら、戻れたことなんて一度もないだろう。終わりなんて訪れないことを、ずいぶん昔から俺たちは知っている。


 温かな青で世界が歪む。僕だけがここで息をしていた。そして泡が爆ぜる瞬間を、私以外の誰も知らない。怖いなぁ。寂しいなぁ。独りぼっちは治らない。かつては呼吸だって立派な音楽だったのに。鋭い刃も青に染まり、すっかり春になっていた。


 だけど僕は思うんだ。諦めたことやほっぽり出したこと、縋ったことも沢山あるけれど、その全部が尊いものだったと。どれだけ嫌いでも惨めでも汚くても、そのひとつひとつがちゃんと俺が俺であった証で、決して否定されることのない、それはそれは崇高な魂であったのだと。それらを守り切れなかったという事実さえ、私が私であるということを示してくれている。


 悪者なんていないということを、きっと君は分かっているんだろう。やり尽くした自責も擦り切れた後悔も、血肉になったまま。消毒はもう間に合わないけれど、だからこそ決して僕らは悲しまないでおこう。尊い貴方のことをずっとずっと覚えておこう。優しい優しい貴方のことを、美しい貴方のことを。ずっと忘れないでおこう。


 明るいはずがない。けれど暗いこともない。先端がくすぐったいのか、心臓が身を捩る。大丈夫。とても大切なことを傷つけないために、俺は違う場所で呼吸を始めるのだ。寂しいね、寂しいね。この夜のようにいつまでも深く、暖かければいい。もう何も傷つけないように、絶対に誰にも壊されないように、何もかもを抱きしめていよう。今だけ全ては僕らの味方だった。あまりにも優しい。


 波紋が月になって私を見ていた。今こそ翼を動かして。
 さぁ、切っ先を鎮めよう。

ある女の子のお話

ある赤い屋根の家に、女の子が住んでいました。
 お母さんとお父さん、そして妹と、家族三人でそれなりに仲良く暮らしていました。


「お姉ちゃん、そのぬいぐるみ、私に頂戴」
 

 ある日、妹が女の子の持っているぬいぐるみを欲しがりました。

 女の子はそれを妹に譲ります。
 本当はお母さんが誕生日に作ってくれた大切なものだったのですが、ぬいぐるみを持っていない妹が可哀想に思えたからです。

 

 中学生になった女の子には、好きな男の子がいました。
 学校帰り、サッカーで汗を流す男の子をそっと盗み見るのが、女の子にとっての楽しみでした。


「私、あの人が好きなのよ。」


 ある日、友達から恋愛相談を受けました。
 友達が好意を向けていたのは、女の子が好きな男の子でした。

 女の子は黙って好きな男の子を友達に譲ります。
 男の子のことは本当に好きだったけれど、友達だってそれは同じだと思ったからです。

 

 女の子には、夢がありました。絵描きになることです。
 そのための学校へ行くことも考えていました。
 ある日女の子は思い切ってその想いをお父さんとお母さんに伝えます。

 すると、二人は刺々しい言葉でたくさんの数字を口にしました。女の子の家はそれほど裕福ではなかったのです。


 「どこへ行こうと、お前は絵描きになんかなれないよ」


 最後に、お父さんはそう言いました。

 


 女の子は夢を諦めました。
 子供では決められない事情があることを知り、両親に苦労をかけてはいけないと思ったからです。

 

 その日の夜、女の子は部屋でたったひとり、泣きました。
 今まで大事にしてきたもののすべてを無くしてしまったような気持ちになったのです。

 誰が悪いというわけではありません。
 にも関わらず、誰かを恨みたくて仕方なくなりました。
 それがただ、どうしようもなく哀しかったのです。

 


 次の日、学校から帰ると、妹がお母さんにすがって泣いていました。小学校で嫌なことがあったようです。


 「先生は学校で泣く子ばかり贔屓するのよ。こうして我慢して、誰にも見せずに家で泣く可哀想な子もいるのに。」


 お母さんはそう言って妹を抱きしめました。


 「じゃあ、私は?昨日の涙は、誰に抱きしめて貰えばいいの?お母さん、私だって、泣いているんだよ。」


 女の子はその一言を飲み込みました。
 妹の頭を撫でる母の手がとても羨ましかったけれど、仕方ないんだと無理矢理自分に言い聞かせます。

 

 (私はきっと、我慢しなくちゃいけないんだ)

 

 これから先も、ずっと。

 

 


 女の子は大きくなり、男の人と結婚しました。
 その男の人は女の子の一番好きな人ではありませんでした。

 それでもその人は優しかったし、一緒にいると幸せな気持ちになれました。


 やがて二人の間に子供が産まれました。
 可愛い男の子です。
 その子を胸に抱き、女の子は決意します。


「この子には好きなことをさせてあげよう」

 

 その子はどんどん大きくなりました。
 サッカー、水泳、野球、そしてピアノ。
 女の子は、その子がやりたいと言ったことはなんでもさせてあげました。

 その子が悪い事をすれば、きちんと叱ります。
 けれど、女の子はその後決まってその子をだきしめました。


 我慢する事のないように。
 悲しい想いをしないように。


 だから、その子が歌の学校へ行きたいと言ったときも、女の子は迷わず頷きました。

 問題がなかったわけではないのですが、そこを我慢してこその母親だと女の子は思ったのです。

 


 やがてその子は音楽大学へ通いはじめました。

 最初のうち、その子は生き生きとその大学に足を運んでいました。
 女の子はそれを見て、そっと安心していました。

 しかし、次第にその子の様子が変わっていきました。
 だんだんと元気がなくなり、塞ぎ込みようになったのです。
 心配した女の子が声をかけても、返ってくるのは疲れた笑顔だけでした。


 とうとうその子は自分の部屋に鍵をかけ、扉の向こうから出てこなくなりました。

 

 女の子は今日も食事を運びます。


 「何がいけなかったのだろう。どこから、間違っていたのだろう。」
 

 その子が可哀想で、自分が悔しくて、ぽろぽろと女の子は泣きました。


 女の子には何もわかりません。
 そしてこれからも、わからないように思えました。
 ただただ、あのひとりで泣いた夜が強く思い返されるばかりでした。


 扉の向こうからは、女の子と同じ苦しげな泣き声がかすかに、そして延々と聞こえ続けていました。

枯れ林と青年

 澄み切った、冷たい夜空の下、海に囲まれた小さな島国に、ぽつぽつと明かりの灯る集落がひとつ。
 その中でも一際あたたかい明かりを放つ家に、ある青年が住んでいました。


 青年には、奥さんと子どもがいました。
 子どもはまだ幼く、最近やっと言葉を覚えたばかりでした。


 「今日はね、この子初めて自分で物を食べたのよ。」


おもちゃで遊んでいる子どもを見つめ、にっこりと奥さんが笑いました。


 「それはすごい。こうやって、どんどん大きくなるんだろうなぁ。」


 青年も、コーヒーを飲みながら嬉しそうに笑いました。

 三人の夜は、いつもこうして柔らかく更けていきます。

 

 

 朝になると、青年は街へ働きに出かけます。

 本当はいつまでも三人一緒にいたいのですが、生きていくためにはどうしてもお金が必要です。
 それに、青年はまだ若かったので、意欲にも満ちていました。


 信号を待っていると、隣のサラリーマン二人が、何やらヒソヒソと話をしています。


 「あいつ、やっぱり行方不明になったらしいぞ。」

 「まさか、枯れ林に行ったんじゃないだろうな。」

 「もしそうなら、きっともう駄目だな。」


 青年は、ため息をつきました。

 

 『この島の人たちの中には、木となって最期を迎える人がいる』という言い伝えがあります。

 何でも、何かに絶望したり、自分を責め続けて前に進むことを拒絶した人が、木となってしまうらしいのです。

 そして枯れ林は、そうなってしまった人たちが最後に集う場所だと言われています。

 

 ただの御伽話だろうと、青年は密かに思っています。

 それでも、この島には木が存在しないということも、また事実でした。

 

 信号が青に変わります。

 そういえば明日は会議だったっけ。

 青年はすでに、そんなことを考えていました。

 

 

 仕事が終わり、青年はうきうきと帰路につきました。

 その日、青年は上司に海外での大きな仕事を頼まれました。

 自分の功績が認められたのです。
 青年にとって、この上なく嬉しいことでした。

 二週間の海外出張を二つ返事で承諾し、青年は家に帰ってすぐ、奥さんにこの事を伝えました。
 

 「そうなの。……良かったわね。」


 しかし、帰ってきた言葉はたったそれだけでした。


 「何か……不味いことでも、あった?」


 その反応に少しがっかりしつつ、青年は尋ねました。

 すると、奥さんは躊躇いがちに言います。


 「うん……そうね。貴方が仕事で、活躍できていることはすごく嬉しいの。……だけど、二週間も会えないのが、少し不安で……。」


  奥さんは、ちらりと眠っている我が子を見ました。


「大丈夫だよ。貴方は立派だ。それに、困ったことがあれば、島の人がきっと助けてくれるよ。」


 奥さんが仕事に反対している訳ではなかったと分かり、青年は朗らかに笑いました。


「……そうね。そうよね。ありがとう。」


 奥さんも、それに応えるように、ひっそりと笑いました。

 

 

 ひと月後、青年は海外に出かけました。

 色々な場所を巡ることで、自分の世界が広がっていくように感じます。

 見たこともない果実や、綺麗な髪飾りなど、たくさんのお土産も買いました。


 そして、青年が訪れた国々には、町にも、公園にも、美しい木々が所狭しと植えられていました。

 その幹は太く、つやつやとした茶色い枝は、まるで天を掴むかのように、大きくその身を広げ、そこから生える青々とした葉は、太陽の光を受け、きらきらと輝いています。


 「なぜ、僕の国にはこんなにも素晴らしい植物が無いのだろう。」


 生命力の溢れる木々の美しさに胸を打たれた青年は、苗を一つ、買って帰りました。

 

 

 仕事を終え、島へと帰った青年は勢いよく扉を開けます。


 「ただいま!」


 その瞬間、青年は部屋を包む異様な空気を感じました。

 あまりにも静か過ぎるのです。

 青年は恐る恐る、リビングに入ります。

 

 目に入ったのは、座ったまま呆けている奥さんと、一本の、木。

 

 「あれ…どうしたの……?それは…?」


 困惑しながら、青年は先程自分が木と認識したそれを、もう一度まじまじと見つめました。

 その木は、青年が見た木とは少し違っているようでした。

 幹は、あの艶のある茶色ではなく、どこか光を放つような白い色をしており、枝は細く、一本は折れてしまっています。葉は緑というより、どちらかというと青に近い色をしていました。

 そして何より、その高さ。

 青年が見た、あの見上げるような大きさではなく、膝くらい。

 そう、丁度、子どもの背丈くらいの。

 

 はっとして、青年は奥さんを見ました。

 夕陽を受け、淡く染まった彼女の瞳から、ゆっくりと涙が溢れます。


 「ごめんなさい。そうなの、あの子なの。ごめんなさい。ごめんなさい。」


 彼女はただひたすらに、謝り続けました。

 青年はというと、茫然とするしかありませんでした。

 あの子が木となった理由も、彼女の涙を止める方法も、青年には何一つ分からなかったのです。

 ぐちゃぐちゃと混乱する頭を抱え、青年は彼女の背中をただ、さすり続けました。

 

 


 それから数日の間、いくら青年が話しかけても、彼女は一言も口を開きませんでした。

 食べ物さえも口にしません。

 買って帰ったお土産たちも、とうとう腐ってしまいました。

 

 青年は考えました。


 何故我が子が、こんな姿になってしまったのか。
 自分がいない間に、一体何があったのか。


 しかし、考えても考えても、分かるはずもありません。

 数日間休んでいる会社への後ろめたさも加わり、青年には疲労感と訝りだけがつのりました。

 

 

 そんなある日、とうとう彼女が言いました。

 「枯れ林に、連れて行って。」

 

 

 二人は、淡々と歩きました。

 日が傾き、辺りが暗くなっても、ずっと。

 青年も彼女も、それぞれがどうしようもなく、疲れ切っていました。


 場所も知らない、存在すら怪しかったはずの枯れ林。

 それでも二人は、少しも迷うことなく、そこに辿り着くことが出来ました。

 まるで何かの、魔法のように。

 

 そこには、数え切れないほど沢山の木々が立ち並んでいました。
 
 皆白く、仄かに光を放っていて、暗闇のはずなのに、その全貌がはっきりと分かるほどでした。

 葉の一枚一枚でさえ、まるでナイフのように鋭く、それでいてどこか柔らかい光を纏っています。


 美しい。
 
 確かに青年は、そう思いました。


 半分馬鹿にしていた言い伝えを、今でははっきりと真実だと言い切ることが出来ました。

 そして、自分にその時が近づいていることも、何となく理解できました。

 

 「泣き声とか、甲高い声が、苦手だった。」

 

 林の中を半分ほど進んだ時、彼女が言いました。


 「私がどれだけあやしても、あの子は泣くの。お母さんって。貴方が帰って来なくて、私は」


 彼女は歩みを止めます。


 「ご飯を、作らなかった。怒鳴った。耳を塞いで、閉じこもった。」


 「気がついたら、静かで。あの子は居なくて。」


 さわさわと音が聞こえます。


 「愛して、いたのに。」


 見ると、彼女の足にはいくつもの筋があり、足先は既に、木の根として、白く光を纏っていました。


 「僕は……貴方を、責めない。」


 青年は、涙に任せて、そう言いました。それしか、言えませんでした。

 青年は彼女を深く、愛していました。

 しかし、それと同じように、あの子のことも深く、深く、愛していたのです。

 

 「言い伝えさえ知らないあの子は、それでも木になった。私は、私は、たった二週間で、あの子にどれほどの絶望を、与えてしまったのだろう。」


 青年の胸は、じんわりと痛みます。

 にっこりと笑った彼女の頬には、いく本もの筋が伸び、白く、白く、ざらついていきます。

 気がつくと、もう綺麗な瞳も、小さな鼻も、ふっくらとした唇も、もう分からなくなっていました。

 そこにあるのは、ただの大きな一本の木、それだけでした。

 

 青年は泣きました。

 何も止められなかった自分への怒りと、愛する全てを失った、その哀しみに。

 冷たい夜の空気が、肺に雪崩れ込みます。

 それでも青年は、かつて彼女だったその木に縋り、大きな声で、泣き続けました。

 

 あぁ、と青年は思います。

 もう何も持っていないのに、僕は何処へ行けばいいのだろう。

 何を目的に生きたらいいのだろう。

 どうして、生きなければならないのだろう。

 

 ふと気がつくと、青年の足は既に木の姿となり、しっかりと地面を掴んでしました。

 痛みは全く感じませんでした。

 ただ身体が木となる感覚だけが、ゆっくりと青年を包んでいきます。

 青年は思い出したように、持っていた枝を一本、精一杯腰を曲げて、地面にさしました。

 それは、青年がこっそり持ってきた、あの子の一部でした。

 

 あの子はここに居て、部屋には買ってきた苗だってある。
 きっとこれで、あの子も寂しくないだろう。


 青年はそう思い、目を閉じました。
 最後の涙が一滴、筋の出来た頬を伝います。

 

 もう手も足も、動きません。
 それは心地の良い不安でした。

 あぁ、なんて優しい、魔法だろう。

 青年は最期、そんな事を思いました。

 さわさわと揺れる木々だけが、青年をじっと見つめていました。

 

 


 どこかの小さな島国の、そのまた小さな村にある、大きな大きな枯れ林。

 そこは今日も、柔らかく、優しい光で包まれています。