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色んな文章の倉庫です。

サナギ

 日付の感覚がなくなることにそう時間は掛からなかった。

 

 泥濘のような日々だと思っている。音を立てないデジタル時計は時の流れを知らせなかった。
 人間はアルコールに弱い。煙草も性に合わず、一本吸って辞めてしまった。元より金が無い。ギャンブルは損することが目に見えているから手を出さなかった。なのにいつしか日々に飲み込まれ、その人間は動けなくなっていた。

 

 机の上には錠剤が散らばっているが、これも日々の積み重ねに過ぎない。ただ眠るためのものだ。人間は強迫的なまでに真面目だった。効かなくなろうが決して秩序を乱すことなく、用法、用量を守って薬を飲んでいた。自傷行為なんていうものは、人間には怖くて到底出来なかった。

 

 ただ、人間は毎日突っ伏しているだけだった。
 初めのうちこそ四角い板に齧りついていたが、そのうちブルーライトと赤い通知に目をやられ、充電器ごと引っこ抜いてベッドの下へ投げ捨ててしまった。以来、人間は毛玉だらけの毛布の中、ただ一心に回る頭と付き合っている。

 

 ところで何故こうなるまで、こうなってまでも人間は一人で暮らしているのか。この惨状を知っている人は誰も居ないのだろうか。

 

 人間には繋がりのある別の人間がいた。血縁関係のある者が数名と、友人が数名。決められた空間で生活せざるを得ない場合、人間は環境に適応することが出来た。つまり、人間には社交性があった。友人を作ることは人間にとって苦ではなかったのだ。


 しかし、それだけだった。


 現状、友人は今の人間の姿を知らない。人間が見せようとしなかったから、見る者もいなかった。人間も人間で、友人にさして興味がなかった。恐らく逆の立場であろうと、人間は友人の力にはならなかっただろう。
 ただ刹那的に、空間を生きるために友人と仲良くする必要があっただけなのだと人間が気づいたのは、この状況に落ちてしまった後だった。

 

 天井の端、エアコンの風向き板が動くのをぼんやり眺め、布団に侵されていない顔の皮膚だけで人工的な風を享受する。外がどんな天気か、どんな季節なのかすら人間には分からなかった。昔、季節が変わるごとに旬の野菜を買っていた時期があったことを思い出す。栄養補助食品ですら口にすることが億劫な今では考えられないことだった。

 

 そしてそうやって過ごすうちに、人間はある異変に気が付いた。寝返りを打てなくなったのだ。
 不可解に思うまま、軽く上半身を起こしてみようと腕に力を込めるも、どうしてか上手く行かない。ベッドにがっちりと足首が固定されているような感覚だった。いや、もっと言えばやわらかいはずの布団が硬度と重量を持っているような。
 理由は分からないが、とにかく布団がのしかかってきて、身体の自由が効かなくなっている。

 

 人間は焦った。確かにヘドロのような日々だったが、布一枚持ち上げられないほど筋力は落ちていないはずだった。しかし、動揺したって仕方がない。ただ人間が動けないこと、そして助けを呼ぶ術も、当てもないことだけが確かだった。

 

 これまでの人生を諦めたことがそうだったように、人間にとってこの状況を諦めることは容易いことだった。むしろどこか当然の報いとばかりに、人間は唯一息をしていた頭まで布団の中へ潜らせた。あれだけ重い布団だったのに、入ってしまうことは簡単だった。

 

 たった一人、人間は暗がりに居た。大したことはなかった。布団の中も外も、そして家の中も外も、人間にとっては変わらないように思えた。
 体中が重く動かない中、当てつけのように思考回路だけはよく動いた。外界の音を気にする必要がなくなった代わりに、自分の声がよく耳へ届くようになったのだ。
 
 人間はこの世に生まれて二十年とそこらだった。
 よく分からないままここまで来てしまったと人間は息を吐く。たとえば弱っている者に手を差し伸べることは善行になるのか、はたまた傲慢な行為なのか、二十年生きただけの人間には分別が付かなかった。それに、これからも分かるようになるとは思えなかった。


 そんな緩やかな諦観の最中、人間はヒトの底に潜む何かを見たような気がしていた。その何かは人間を脅かすものであり、人間に息をさせている唯一のものでもあった。

 

 どろりどろどろと、思考が空間に溶けていくような気がした。それはそれで心地よかった。他者を通してしか己を感じられない割に、人間は寂しがりだったのだ。だからこそ人間にとって自分は重すぎた。自己を手放してしまえるのならば、人間にとってそれほど嬉しいことはなかった。

 

 あらゆる感覚がなくなっていく中、人間が思い出したのは幼い頃の記憶だった。
 先に話したように、人間は他者を通して己を図っていた。だからこそこれまで人間の生は順風満帆そのものだった。当時の人間にとって叱責は処刑と同等の意味を持っていたからだ。賞賛にこそ己の存在意義があると、人間は疑うことすらしなかった。テストで百点を取った後、母親が頭を撫でてくれることが人間は何よりも好きだった。

 

 しかし、それも幼かった頃の話だ。世の理を理解するにつれどれだけ頑張ろうと、そうそう人が褒めてくれることはないのだと人間は悟った。反対に、叱咤されるリスクはこの先も健在だということも。
 その先に人間を待っているものは何もなかった。人間はこの先、危険だけを回避して生きるしかないのだと、この世をそう理解したのだ。途端、自分への賞賛はガラクタのように崩れ落ちた。同時にそのガラクタを、なぜか母親が我が物顔で抱えていることも、人間の退廃的な生活を加速させた。

 

 人間は何かを恨んでいるわけではなかった。綺麗事を抜きにして、ベッドに住み着いてしまったのは他でもない人間自身だったからだ。強いて言えば、人間は自身の浅はかさを呪っていた。ただ、この性がもうどうしようもなく根付いてしまっていることも事実だった。

 

 触覚が失われた中、それでも瞼が熱くなるのを感じた。
 あらゆることに気付いてからというものの、人間は考えることを辞められなかった。抜け出せないと分かっていても気づけば打開策を模索していた。人間は救いが欲しかった。最中、倫理に反することすら願った。
 
 間違っているものが何なのか、間違っていたことが何なのか。
 頭の悪い人間には到底分からないことだった。己にとって何が一番大切かすらろくに分からない、いや、もしくは大切なものを守れなかったからこそ、結果としてこの状況なのではないかとも考える。

 

 人間は生まれ変わりを嫌っていた。来世という言葉が酷く重たく響いていた。人間はこれ以上思い悩まなければならないことを恐ろしく思っていた。
 しかし身体の輪郭、そして思考の境界が溶けだした今、何となく人間にはその溶け残りが見えるような気がしていた。状況は何一つ変わっていないのに安心してしまったのは、解けていく感覚が、あるいは終わりと似ていたからなのかもしれない。
 
 考えて考えて、滞って考えて。
 度重なる自己嫌悪と肥大した自己愛、他者への配慮と蹴落とし、空虚な愛が全て剥がれ落ちた後、人間に残っていたのはただ静かに涙を流す自分自身のみだった。

 

 ふっと軽くなる身体に、もし来世があるのならと、人間らしくないことを──いや、人間らしさは、本来人間自身が決めることだった。
 ともかく来世があったのなら。もしいつか自分を誇ることが出来たらいいと。人間は身勝手にそう祈った。それだけがどうやら、人間の中で真実のままだった。

 

 途端、腕が動く。そっと布団を捲ってみれば、いとも簡単に布はベッドから落ちた。
 最初に見えたのは、さびれた音を立てるエアコンの風向き羽。身体を起こせば埃だらけの部屋、閉まったカーテン。風通しの悪いワンルーム。変わらない風景。しかしその背中に違和感を覚える。枕元に金粉が散る。

 

 薄汚れたベッドの上。

 きっと誰に知られることもない。どこにも行けない、無用の長物。

 

 それでも人間の背に宿った羽根は、この世の何よりも美しく光を放っていた。