S

色んな文章の倉庫です。

魔法使いの失敗

 様々な色の緑に彩られた森の奥、木で出来た小さな家に、ある魔法使いが住んでいました。
 魔法使いの腕は確かでした。飛行術はもちろん、どんな薬の調合もお手の物。変身魔法や瞬間移動だってちょちょいのちょい。魔法使いに出来ないことはありませんでした。

 そんな魔法使いは、ある商人に恋をしていました。

 何でも出来てしまうのですから、生活には困りません。しかし、森の奥で一人、ひっそりと暮らしていくことに魔法使いは飽き飽きしていました。そんな時、姿を現したのがその商人でした。

 星屑でできた上等な宝石、ユニコーンの角に、龍の牙が使われたハサミ。商人は魔法使いに、たくさんの商品を売り込みました。魔法使いは特に物を欲していたわけではありませんでした。何でも出来るのです。商人が持ってきた商品だって、作り出すことくらい簡単でした。

 しかし、魔法使いは商人が会いに来てくれることが嬉しくて、毎回商品を買っていました。あわよくばもっとお話がしたいと、いつしか魔法使いはそう思うようになったのです。魔法使いは退屈していた、もしくは寂しかったのかもしれません。

 そこで魔法使いは考えました。妖精の粉がいっぱいに詰まった植木鉢を用意して、朝日の欠片と新鮮なキイチゴの果肉を、商人から買った、月の石が使われたスコップで埋めました。そして呪文を唱えながら、丁寧にろ過した海の水を回しかけます。最後に自分の心を一部、取り出して植木鉢に捧げました。
 するとどうでしょう。あっという間に植木鉢から芽が生えて、すくすくと育っていきます。立派な深緑の葉が生えて、上品な赤色の蕾が覗きます。受け取ってばかりでは伝わらないからと、魔法使いは商人に世界一綺麗な薔薇の花をプレゼントすることにしたのです。

 しかし、その時、異変が起きました。立派に伸びた茎に、突如として棘が生えたのです。魔法使いは顔をしかめました。商人を傷つけないよう、棘は取り払ったつもりだったのです。さらに異変は続きます。薔薇は魔法使いが望んだとおり、一瞬でその美しい花を咲かせました。深紅の花弁がつややかに揺れます。しかし。

「こんにちは」

 薔薇は、大きな花びらを揺らしてそう言いました。魔法使いはますます顔をしかめます。魔法使いの呪文によって出来たのは、世界一綺麗な喋る薔薇だったのです。

 失敗だ。

 そう思った魔法使いは、すぐに魔術書に目を落としました。この薔薇をどう処分するべきか、考えようと思ったのです。しかし、生まれたばかりの一輪の薔薇は、魔法使いがなぜ不服そうなのか分かりません。

「ねぇ、抱きしめてよ。寂しいわ」

 不安な薔薇は、一言、そう言いました。魔法使いは大きくため息を吐いて薔薇を見ました。普通の薔薇はそんな事を言いません。けれど、魔法使いの薔薇は違いました。そして魔術書を読んだ結果、魔法使いはこの薔薇が延々と咲き続けてしまうことに気が付いたのです。商人の目を楽しませるようと唱えた、枯れることのない薔薇を作り出す呪文は、よりにもよって成功していたのです。

「痛いから嫌」

 魔法使いは薔薇を一蹴します。煩わしい気持ちはありましたが、棘があることと喋ることを除けば、美しく枯れることの無い、魔法使いの理想的な薔薇なのです。魔法使いは仕方なく、薔薇を育ててみようと思いました。
 しかし。

「薔薇には棘があるなんてこと世の中の常識なのに。そんなことも分からないで私を作ったの?」

 これも魔法使いの失敗でしょうか。薔薇はやけに魔法使いに対して反抗的でした。魔法使いはあまり自分以外のものと関わった経験はありませんでした。だからこそ、魔法使いは薔薇の扱い方が分かりませんでした。
 結局、魔法使いは薔薇を無視することに決めました。薔薇の命の源である水だけは欠かさずに与えますが、それだけです。話を聞こうとする気すらありません。魔法使いの薔薇に対する慈しみは、薔薇が喋った途端に失われてしまいました。

「何で無視するの?私が何か悪いことをしたの?」
「寂しいわ。棘だって、あなたが与えたものじゃない」

 一方、朝起きてから、夜眠るまで、薔薇は魔法使いに語り続けました。
 薔薇はただ、不安だったのです。魔法使いと違い、薔薇は一人では何も出来ません。植木鉢から動けないのです。もちろん自分の言葉が魔法使いを逆なでしているなんてこと、薔薇は夢にも思っていませんでした。
 薔薇はなぜ自分が植木鉢に飾られているのか、その理由が知りたかっただけでした。自分が生まれたことに対する確証が欲しかったのです。

「私が喋るなんて想定外だったの? そんなこと知らなかったの?」

 しかし、これにだんだんと苛々してきたのは魔法使いです。
 これが普通の魔法の失敗であれば、魔法使いは問答無用で薔薇を捨てていたでことしょう。商人へ贈るため、別の薔薇を作ろうとしたに違いありません。けれど、この薔薇に限っては違いました。
 なぜなら、魔法使いは薔薇に自身の一部を捧げていたのです。他のものと違って、魔法使いの心は有限です。そうやすやすと使い捨てることは出来ないのです。だからこそ、魔法使いは訝っていました。自分の大切な一部を捧げたにも関わらず、薔薇は何一つ思い通りになってくれないのです。これでは商人に満足してもらうことも出来ません。

「私はあなたに心の一部も裂いたのに」

 とうとう、魔法使いは薔薇にそう漏らしました。それは薔薇と会って初めて口にした、心からの本音でした。
 そんな魔法使いに対し、きょとんとしたまま、薔薇は口を開きます。

「なんで、可哀想なのがあなたなの?」

 薔薇と魔法使いが分かり合うことは、ついに出来ませんでした。
 魔法使いはとうとう杖を振いました。目にも留まらぬ速さで光が飛んでいき、植木鉢にヒビが入ります。続けざまに魔法使いは薔薇を植木鉢から引っこ抜きます。棘が手に刺さって血が流れますが、そんなことを気にする余裕は魔法使いにありませんでした。がしゃん、と音を立てて植木鉢が机の上から落ちました。妖精の粉を纏ったまま、薔薇は黙ってむき出しになった根っこを揺らしています。

 丁度その時。魔法使いの家を誰かが訪ねてきました。慌ててドアを開けると、そこには商人が立っているではありませんか。どうやらいつものように、魔法使いに物を売りに来たようです。
 魔法使いは少し躊躇いましたが、商人を待たせて家の中へ戻りました。それから横たわっていた薔薇の根をちょん切って、商人に薔薇を差し出しました。本来、薔薇はこうなる予定だったのです。
 果たして商人は驚いたような顔をして、それから少し笑いました。

「綺麗だね。棘を取ってくれる?」

 魔法使いは頷いて、持っていたハサミで一つずつ、薔薇の棘を切り落としました。
 ぱちん、ぱちんと音がする度に、魔法使いは妙な胸騒ぎを覚えました。しかし、頭のいい魔法使いは、それでもついにその胸騒ぎの答えには辿り着けませんでした。そこで動かされるべき感情は、薔薇の為に捧げたものの一部でした。

「これで綺麗だね」

 全ての棘が取り除かれた薔薇を見て、商人は優しく笑いました。
 
 その後、一輪の、美しい妖精の粉を纏った、世界一綺麗な薔薇は、商人によって沼の中に捨てられました。一人で暮らす魔法使いのことを、枯れない薔薇を作ることが出来る魔法使いのことを、商人はずっと不気味に思っていたのです。
 夜、月も届かないよどんだ沼の中に、一輪の薔薇が沈みます。
 枯れない、永久の命を持った薔薇。しかしその薔薇が口を開くことは、もう二度とありませんでした。

サナギ

 日付の感覚がなくなることにそう時間は掛からなかった。

 

 泥濘のような日々だと思っている。音を立てないデジタル時計は時の流れを知らせなかった。
 人間はアルコールに弱い。煙草も性に合わず、一本吸って辞めてしまった。元より金が無い。ギャンブルは損することが目に見えているから手を出さなかった。なのにいつしか日々に飲み込まれ、その人間は動けなくなっていた。

 

 机の上には錠剤が散らばっているが、これも日々の積み重ねに過ぎない。ただ眠るためのものだ。人間は強迫的なまでに真面目だった。効かなくなろうが決して秩序を乱すことなく、用法、用量を守って薬を飲んでいた。自傷行為なんていうものは、人間には怖くて到底出来なかった。

 

 ただ、人間は毎日突っ伏しているだけだった。
 初めのうちこそ四角い板に齧りついていたが、そのうちブルーライトと赤い通知に目をやられ、充電器ごと引っこ抜いてベッドの下へ投げ捨ててしまった。以来、人間は毛玉だらけの毛布の中、ただ一心に回る頭と付き合っている。

 

 ところで何故こうなるまで、こうなってまでも人間は一人で暮らしているのか。この惨状を知っている人は誰も居ないのだろうか。

 

 人間には繋がりのある別の人間がいた。血縁関係のある者が数名と、友人が数名。決められた空間で生活せざるを得ない場合、人間は環境に適応することが出来た。つまり、人間には社交性があった。友人を作ることは人間にとって苦ではなかったのだ。


 しかし、それだけだった。


 現状、友人は今の人間の姿を知らない。人間が見せようとしなかったから、見る者もいなかった。人間も人間で、友人にさして興味がなかった。恐らく逆の立場であろうと、人間は友人の力にはならなかっただろう。
 ただ刹那的に、空間を生きるために友人と仲良くする必要があっただけなのだと人間が気づいたのは、この状況に落ちてしまった後だった。

 

 天井の端、エアコンの風向き板が動くのをぼんやり眺め、布団に侵されていない顔の皮膚だけで人工的な風を享受する。外がどんな天気か、どんな季節なのかすら人間には分からなかった。昔、季節が変わるごとに旬の野菜を買っていた時期があったことを思い出す。栄養補助食品ですら口にすることが億劫な今では考えられないことだった。

 

 そしてそうやって過ごすうちに、人間はある異変に気が付いた。寝返りを打てなくなったのだ。
 不可解に思うまま、軽く上半身を起こしてみようと腕に力を込めるも、どうしてか上手く行かない。ベッドにがっちりと足首が固定されているような感覚だった。いや、もっと言えばやわらかいはずの布団が硬度と重量を持っているような。
 理由は分からないが、とにかく布団がのしかかってきて、身体の自由が効かなくなっている。

 

 人間は焦った。確かにヘドロのような日々だったが、布一枚持ち上げられないほど筋力は落ちていないはずだった。しかし、動揺したって仕方がない。ただ人間が動けないこと、そして助けを呼ぶ術も、当てもないことだけが確かだった。

 

 これまでの人生を諦めたことがそうだったように、人間にとってこの状況を諦めることは容易いことだった。むしろどこか当然の報いとばかりに、人間は唯一息をしていた頭まで布団の中へ潜らせた。あれだけ重い布団だったのに、入ってしまうことは簡単だった。

 

 たった一人、人間は暗がりに居た。大したことはなかった。布団の中も外も、そして家の中も外も、人間にとっては変わらないように思えた。
 体中が重く動かない中、当てつけのように思考回路だけはよく動いた。外界の音を気にする必要がなくなった代わりに、自分の声がよく耳へ届くようになったのだ。
 
 人間はこの世に生まれて二十年とそこらだった。
 よく分からないままここまで来てしまったと人間は息を吐く。たとえば弱っている者に手を差し伸べることは善行になるのか、はたまた傲慢な行為なのか、二十年生きただけの人間には分別が付かなかった。それに、これからも分かるようになるとは思えなかった。


 そんな緩やかな諦観の最中、人間はヒトの底に潜む何かを見たような気がしていた。その何かは人間を脅かすものであり、人間に息をさせている唯一のものでもあった。

 

 どろりどろどろと、思考が空間に溶けていくような気がした。それはそれで心地よかった。他者を通してしか己を感じられない割に、人間は寂しがりだったのだ。だからこそ人間にとって自分は重すぎた。自己を手放してしまえるのならば、人間にとってそれほど嬉しいことはなかった。

 

 あらゆる感覚がなくなっていく中、人間が思い出したのは幼い頃の記憶だった。
 先に話したように、人間は他者を通して己を図っていた。だからこそこれまで人間の生は順風満帆そのものだった。当時の人間にとって叱責は処刑と同等の意味を持っていたからだ。賞賛にこそ己の存在意義があると、人間は疑うことすらしなかった。テストで百点を取った後、母親が頭を撫でてくれることが人間は何よりも好きだった。

 

 しかし、それも幼かった頃の話だ。世の理を理解するにつれどれだけ頑張ろうと、そうそう人が褒めてくれることはないのだと人間は悟った。反対に、叱咤されるリスクはこの先も健在だということも。
 その先に人間を待っているものは何もなかった。人間はこの先、危険だけを回避して生きるしかないのだと、この世をそう理解したのだ。途端、自分への賞賛はガラクタのように崩れ落ちた。同時にそのガラクタを、なぜか母親が我が物顔で抱えていることも、人間の退廃的な生活を加速させた。

 

 人間は何かを恨んでいるわけではなかった。綺麗事を抜きにして、ベッドに住み着いてしまったのは他でもない人間自身だったからだ。強いて言えば、人間は自身の浅はかさを呪っていた。ただ、この性がもうどうしようもなく根付いてしまっていることも事実だった。

 

 触覚が失われた中、それでも瞼が熱くなるのを感じた。
 あらゆることに気付いてからというものの、人間は考えることを辞められなかった。抜け出せないと分かっていても気づけば打開策を模索していた。人間は救いが欲しかった。最中、倫理に反することすら願った。
 
 間違っているものが何なのか、間違っていたことが何なのか。
 頭の悪い人間には到底分からないことだった。己にとって何が一番大切かすらろくに分からない、いや、もしくは大切なものを守れなかったからこそ、結果としてこの状況なのではないかとも考える。

 

 人間は生まれ変わりを嫌っていた。来世という言葉が酷く重たく響いていた。人間はこれ以上思い悩まなければならないことを恐ろしく思っていた。
 しかし身体の輪郭、そして思考の境界が溶けだした今、何となく人間にはその溶け残りが見えるような気がしていた。状況は何一つ変わっていないのに安心してしまったのは、解けていく感覚が、あるいは終わりと似ていたからなのかもしれない。
 
 考えて考えて、滞って考えて。
 度重なる自己嫌悪と肥大した自己愛、他者への配慮と蹴落とし、空虚な愛が全て剥がれ落ちた後、人間に残っていたのはただ静かに涙を流す自分自身のみだった。

 

 ふっと軽くなる身体に、もし来世があるのならと、人間らしくないことを──いや、人間らしさは、本来人間自身が決めることだった。
 ともかく来世があったのなら。もしいつか自分を誇ることが出来たらいいと。人間は身勝手にそう祈った。それだけがどうやら、人間の中で真実のままだった。

 

 途端、腕が動く。そっと布団を捲ってみれば、いとも簡単に布はベッドから落ちた。
 最初に見えたのは、さびれた音を立てるエアコンの風向き羽。身体を起こせば埃だらけの部屋、閉まったカーテン。風通しの悪いワンルーム。変わらない風景。しかしその背中に違和感を覚える。枕元に金粉が散る。

 

 薄汚れたベッドの上。

 きっと誰に知られることもない。どこにも行けない、無用の長物。

 

 それでも人間の背に宿った羽根は、この世の何よりも美しく光を放っていた。

DEAR

遊んでいたかっただけだと思う

季節外れの蝉が鳴くから表面を撫でた

深すぎると濡れてしまうのは

多分僕のせいだから

 

寄生が上手だと

嫌味のような言葉が染みになる

景色の一つに過ぎないことが

どうしてこんなにも息苦しい

 

あなたに名前は要らなかった

たとえ患っていたとして

汚れていなかったのは君の方だから

 

甘すぎるザッハトルテ

吐き気が上る

「喜べなくてごめんね」なんて

そんなこと思ってもない癖に

 

きっと怖がっていた

きっと欲しがっていた

 

誰よりも輝きを愛していた

太陽の光に敵わないから

遮断しなければ生きていられなかった

 

穢れを喰わない宝石

汚れを生み出していることには気が付かない

 

鏡は黙ってこちらを見ている

無知は純潔だった

知ってしまった僕はこんなにも暗いのに

 

反射するものが目に眩しくて

痛みに耐えられないから石を投げた

 

「出来ないじゃ済まないんだよ」

粉々にすりつぶしてしまえばあるいは

泥は洗われたのかもしれないけれど

 

声も上げなかった

全部知っていたと思う

 

そんなに鋭い破片を持っているのに

あなたは煌めきで隠してしまうのだろう

反射に甘えてしまうのだろう

 

自覚しない鏡

破片にしたのは僕だった

 

「一人でだって生きていけるでしょう?」

 

突きつけたものが宝石だったとしても

飲み込んでいくばかりね

そろそろ喉につかえてしまう

 

もし僕が優しく成れていたら

僕も君も救われていただろうか

 

醜悪な美しさを

ちゃんと笑って慈しむ

悪者に成りたくない

 

ただ愛されていたかった

世界の中心はいつだって僕で

あなたもそうだと思いたい

 

すり減ったガラスで

それでも言葉だけを覚えている

 

勝手に誇って勝手に捨てて

ごめんなさいと謝りたい

それからやっぱり嫌いだと

あなたも僕も傷つけたい

 

赦されないのはどちらだろう

見たくなかったのは多分僕で

全部消えてしまえばいいなんて

夢から覚めるのは何度目か

 

世界が透明になった時

僕がきちんと終わらせたい

 

あなたは一体何を映すのだろう

まだ純潔を抱いたまま

独りぼっちで生きるのだろうか

 

煮詰まった気持ちがちょっと濃い

破片を心臓に突き刺したまま

あなたはザッハトルテを食べている

 

狡猾なまでに知らない白で

吐き出せないまま飢餓を待つ

 

僕はきっと

アルビノと夏

 夏は僕の温度だった。

 

『愁は悪くないだろ』

 

 太陽が少し傾いた、昼には遅く、夕方には早い時間帯。カンカンと照る陽射しにうつむいている僕に、夏は強くそう言った。

 首を持ち上げれば、怒ったように揺れる黒いランドセルが目に入る、黄色い帽子の下、小麦色の項にじわりと汗が滲んでいた。黒い革に反射する光にくらめくように、僕はまたそっと目を逸らす。

 

『仕方がないよ』 

 

 たった三年で随分傷ついてしまった、白く禿げたランドセルの取手を握りしめる。その小さく、真白な手に息を吐く。若干九歳。世の中の摂理と自分の立場をある程度飲み込むには、十分すぎる時間だった。

 

 仕方のないことだと、ずっと思っている。不自然なクリーム色の髪も、気味の悪いほど白い肌も、色素が薄すぎるだけ、まともに働きもしない鼠色の瞳も、それによって引き起こされるあらゆる現象も。僕の見た目が僕のせいでないように、僕に向けられる感情だって、きっと人のせいじゃない。

 

『仕方ないわけないだろ!』

 

 ふと、轟いた夏の声に僕の肩は跳ねた。慌てて顔を上げると、小麦色の肌に爛々と真っ黒な瞳を煌めかせながら、夏は僕の両肩に手をかけた。

 

 その頃の僕はまだ成っていなくて。

 黒い太陽に照らされることが辛かった。醜い劣等感と嫉妬をどう扱っていいか分からなかった。僕には諦めるしか術がなかった。そこに温かみすら感じられない程、僕は小さく独り、冷たいままでいた。

 

 いけない、と、目を逸らした先にある自分の白い腕、そこに浮かぶ青あざを見て、そのおぞましい色は簡単に爆ぜた。

 

『夏に何が分かるんだよ!』

 

 蝉が鳴く。入道雲が僕らを見ていた。

 ハッと気が付いた時にはもう、言葉も、時も、戻ってきてはくれなかった。頬を汗が伝う。静かな心臓が、それでも煩かった。

 

『……分かるまで』

 

 夏は小さく呟いた。そのまま僕の腕、青い痣に小麦色の手を添える。じわりと、掌の熱が沁みていく。

 

『分かるまで、教えてくれよ』

 

 夏の言葉が透明な青空に消えていく。どこかでリンと、風鈴が無様に音を立てた。

 

♢♢♢

 

「愁」

 

 声を掛けられ、前を見る。教科書を仕舞おうとした手を止めて、口を開いた。

 

「どうしたの?」

 

「わり、ちょっとノート見せてくんね? 今日俺当たるんだよ……。ジュースおごるからさあ」

 

 頼む! と手を合わせて懇願するクラスメイトを微笑ましく眺めながら、机の中を漁りノートを渡す。

 

「授業始まる前に返してな?」

 

「まーじで助かった! 本当、ありがとう!」

 

 クラスメイトは大げさに礼を言った後、ひらひらとノートを振りつつ自分の席に駆け出していこうとした。その時。

 

「うわっぷ」

 

 誰かとぶつかったらしく、クラスメイトの身体が軽くこちらに跳ね返ってくる。慌てて顔を上げて、目を見開く。

 

「わり、ぃ……」

 

 背が高く、ガタイの良い身体つき。短く切りそろえられた黒髪に、あの頃より幾分か白くなった肌。

 彼は長い睫毛を持つ瞳でうっそりとクラスメイトを見て、窓際の自分の席に戻っていった。

 

「ビビった……、あいつ、怖ぇな、相変わらず」

 

 クラスメイトは焦った顔のまま、声を潜めて僕にそう言った。僕はクラスメイトには答えず、ひっそりと彼を目で追う。

 窓から差し込むキラキラとした陽ざし。少し肌寒いほど効いている冷房の中、彼はこちらに背を向け、じっとその輝かしい陽ざしを見つめていた。

 

 夏。僕の温度。

 

「愁?」

 

 クラスメイトの呼びかけに、のんびりと僕は笑顔を向ける。黙った僕を不思議に思ったのだろう、訝し気な顔。

 

「ううん。……授業、始まるよ。写してきな」

 

 この人は、一体夏の何を怖がっているのだろう。

 

 時間が経つと変わるものは変わると大人はそう言う。僕はどこか話半分に彼らの言葉を聞いていたが、この世に生を受けて十六年、驚くほどしっくりとこの言葉を実感しつつあった。端的に言うと、僕が僕じゃなくなって、夏が夏じゃなくなった。

 

 授業が始まる。僕は教科書のページをめくる。目を滑らせるようにして、もう一度右側、三列離れたところに座る夏を見る。夏は黒く長い睫毛を伏せ、閑散とした机の上に目を向けていた。その顔は白く照らされている。

教科書や落書きだらけのノート、筆記用具の散らばる他の生徒とは違って、夏の机にあるのは電子タブレットだけだった。

 

 静かに教師の声が響く教室で、思わず胸を掻きむしりたくなる。代わりに白く白く生気のない自分の腕に爪を立てた。力を込めた皮膚が、また一層白くなる。冷房の人工的な風が肌を撫でた。

 

 小学生の頃。

 夏はどこに居ても真ん中だった。夏の周りには人が絶えなかった。男の子にも女の子にも好かれて、夏はいつでも笑っていた。その笑顔が取り繕ったものではないと分かっていたのだろう、だから夏は愛されていた。それが僕の当たり前だった。

 

 そして夏は、偶然、生まれた家が近かった僕にも、その光を向けてくれた。

 

その頃の僕は汚かった。何もよく分かっていないまま、諦観に隠して果てしなく周囲を妬み、自分を嫌っていた。幼さでは言い訳にならないくらい愚かだったように思う。

 

肌の色と目の色と髪の色が人とは違うから、日系の顔に不釣り合いの不格好な色だから、何も言えない性格だから。

理由は色々あるだろうが、ともあれ僕の周りに人は居なかった。いや、僕を嘲る人、という意味では僕も人に囲まれていた。暖かい太陽とは違って冷たいものは誰も好きじゃない。排除したくなるくらいには。これも僕の当たり前だった。

 

ぽき、とチョークの折れる音がした。ゆっくりと視線を前に戻せば、中年の女教師が床に落ちた白いチョークを拾っているところだった。

 

色のない、温度のない僕に、夏はいつでも優しかった。

当たり前をそうとは思わず、僕の周りにいる人に怒った。冷たい僕をまるで人のように扱った。

 

多分、僕は嬉しかった。その反面、戸惑っていた。

分からなかった。なぜ夏がその光を僕に向けるのか。わざわざ冷たい水面に温度を分けるのか。

今なら分かる。誰でも、どこでも分け隔てなく照らし、恵みを与え、育て上げる。夏は、太陽とはそういうものなのだ。

もう一度言うが、あの頃の僕は愚かだった。どうしようもなく大馬鹿者だった。

 

 だから僕は、禁忌を犯した。犯してしまった。

 

 喉が渇く。嫌な汗が背中に滲んで、思わず身震いをした。

夏空に響く、汚い僕の声を覚えている。悔し気に歪んだ夏の顔をよく覚えている。

 しかし、それでも太陽は僕を照らした。僕の罪を、夏はすぐに受け入れた。責めることすらしなかった。多分、それが太陽の宿命だった。

 

 それから僕はなるべく夏との接触を少なくした。

 恥ずかしかった。自分の浅ましさに打ちのめされていた。出来ることなら僕がこの世界の影を全部集めて、太陽から隠れてしまいたかった。

 

しかし、あんなことをした後だって、夏は僕を視界の隅に置いていたように思う。それを僕は罰として受け取った。太陽を穢した罰が、太陽を穢し続けることだった。皮肉だと思った。

 

 でも、時の流れと共に変わるものは確かにあって。

 

 不意に女教師の声が止んだ。ふと黒板を見れば、教科書の問題番号が書かれている。ざ、ざ、とシャーペンを走らせる音がゆったりと響く。時計の針は授業が残り十分であることを知らせていた。僕は怠けるようにペンをノックする。

 

 中学、高校と年齢が上がるごとに、段々と僕の周囲から嘲りはなくなり、それなりに人が近づくようになった。僕の本質は何も変わっていないのに、ゆっくりと世界は僕に優しくなっていった。冷たさに耐性の無かった子供が少し大人になって、防寒する術を身に付けたのだと思う。それはそれで自然なことなのかもしれない。

 

しかし対照的に、高校になってから夏はクラスから浮いていた。

夏は喋らなくなった。というより、何にも干渉しなくなった。その黒い瞳はいつだってどこか遠くを見ていた。人との接触を拒んでいるように見えた。夏は笑わなくなった。夏から温度がなくなっていくようで、僕はどうしようもなく不安だった。

夏が一人で、僕はクラスに馴染んでいた。その矛盾が吐きそうなほど気持ち悪かった。そして運悪く、僕らは二年連続で同じクラスになってしまった。

 

変わるものはある。変化を恐れていてはこの世界では生きていけない。

例えば、小学校、中学校、高校と学年が上がり、周りの人の顔ぶれも変わること。例えば、夏がずっと続けていた野球を辞めてしまったこと。例えば、夏の家で昔飼っていた犬がいつの間にか居なくなったこと。今はもうその名前だって思い出せないこと。例えば、夏と話さなくなったこと。その期間が、なぜかより夏への想いを強く育てていること。

 

当たり前に世界は変わっていく。当たり前に、僕達は置いて行かれるわけにはいかなくて。

 

──それでも。

 

思考。遠くでチャイムが鳴る。がたがたという音に沿って僕も席を立つ。礼が終わるとすぐに僕はトイレの個室に飛び込んだ。

 

誰にも見られない場所で顔を歪ませる。頬を嫌な汗が伝った。ギリと歯を食いしばる。息が荒い。制御できない感情をぶつけようと壁を殴りかけたが、寸でのところで拳を止める。

 

『あいつ、怖ぇな、相変わらず』

 

じりじりと吐き気に似た塊が胸を浸蝕していく。それは紛れもない、怒りの感情だった。

そう、僕は怒っていた。

夏が恐れられることを、夏が一人でいることを。

 

 なぜ夏が一人でいるのに、皆は放ってしまうのか。あんなに寂しそうな、苦しそうな目をしているのに、何故誰も夏を、太陽を掬い上げようとしないのか。その背中を抱きしめて、夏の本音を聴こうとしないのか。何があったのか、何が夏の温度を奪ったのか、何故それを夏から聴こうとしないのか。

 

夏はあんなにも輝かしいのに。あんなにも暖かいのに。

 

 拳を開いて、己の手の平を見る。血の気のないという言葉がぴったりな、薄気味悪い僕の手。悔しくなって、しかしこれも罰だと受け入れて、独り項垂れる。思い返すのは、あの夏の日。また冷たい汗が噴き出す。

 

 どんなに助けたくても、太陽には届かなかった。触れては駄目だと、僕はあの日の誓いを破れない。

僕は触れられない。夏に触れられない。

 

凍えたように息を吐き出してから、一応水だけを流してトイレを出る。今日はこの後、ショートホームルームで放課後のはずだった。

賑やかしい廊下を適度な顔をして歩く。皆、どこか正しそうな顔をしていた。

 

 一度だけ、禁忌を犯してから一度だけ、僕は夏と接触したことがある。

 

 いつかの放課後。あれは高校に入学してすぐだっただろうか。僕らは二人で日直の当番になったことがあった。あの時ほど自分の出席番号を呪ったことはない。

 

『愁』

 

 西日の差す教室。運動部のよく分からないコールが響く中、当番日誌を書いていた僕に、夏は近づいた。

 

『何で、喋らなくなったんだよ』

 

 日誌に落ちる影。僕は必死に無視をして、ペンだけを走らせた。ぽたり、と汗が落ちてインクが滲んだ。焦ったことを覚えている。ゆらりと影が動いた。ごつごつとした夏の手が、そっと日誌に添えられる。

 

『……あの時のこと、気にしてるのか?』

 

 バクバクと心臓が鳴っていた。ペンを進められなくなって、僕は固まった。

罪悪感で押しつぶされそうだった。どうか僕なんかにそんな痛ましい声色を使わないでくれ。お願いだから僕に構わないでくれ。

夏の手が、ふいに日誌から離れる。とっさに引き留めたいと思った。思ってしまった。

 

それでも僕は夏に触れるわけにはいかなかった。たとえ、声にだって。しかし。

 

『──俺のこと、もう嫌いか?』

 

 突然耳に飛び込んできた、信じがたい言葉に僕は勢いよく顔を上げた。

 そんなわけがなかった。僕が夏を嫌うわけが無かった。むしろ、僕は夏のことを大切に想っていた。それこそ触れられないくらい大切に。

 

 だって、夏は僕の太陽だから。

 

『違う』

 

 思わずそう呟いてしまって、ハッとした。慌てて口元に手をやる。やってしまった。

 しかし、いっぱいに目を見開いた僕に夏は一瞬驚いて、そして口の端を歪めた。

 

『──良かった』

 

 カーテンが靡く。夕陽が揺れる。赤。

 まるで違う世界で、違う世界の住人みたいに、妖艶に夏は嗤った。それはおおよそ七年ぶりの、夏と僕のまともな会話だった。

 

 思えばあの頃を境に、夏は段々と失われていった気がする。

 

 時間に煩い教師の声に急かされ、俯き加減でガラリと教室のドアを開けた。目の前。反対向きの上履き。

 

「愁」

 

 ふと、声が落ちた。

 ゆっくりと目を見開いて、視線を上げる。小麦色だった、きめの細かい肌。

 

「放課後、ちょっと残ってくれないか」

 

 夏が立っていた。僕より少し高い位置から、それでも僕を真正面から見つめるようにして、夏が立っていた。

 どくんと心臓が鳴る。ほぼ反射のように俯いた。だらだらと汗が流れる。あの夕焼けの日と同じだと思った。僕は夏を直視できない。

体ごと向きを変え、僕は夏の元を去ろうとする。もう一度過ちを犯すわけにはいかなかった。

 

「愁」

 

 しかし、ぱし、と夏は僕の腕を掴んだ。ギョッとして思わず振り返る。夏の手は冷たかった。あの夏の温度が嘘みたいに、夏の手は冷え切っていた。

 

「愁」

 

 その声に、恐る恐る僕は顔を上げる。高い鼻に薄い唇。久しぶりにしかと見る夏は、記憶よりも大人になっていて。

黒の瞳。ああ、逃げられない。

 

僕は夏を直視してしまった。直視してしまった。

 

「頼むよ」

 

 かすれ気味に発せられた声に、ゆっくりと頷く。懇願するような太陽の瞳に、どうして僕が抗えるというのだろう。

 

 頷いた僕に安心したのか、夏はゆっくりと僕の腕から手を離した。冷たかったはずの手、それでも温度が離れていく。固まったまま、僕は隣を通り過ぎていく夏の背中を見つめている。項、小麦色だった肌は随分と僕のような色に近づいていた。

 

どくどくと相変わらず心臓が煩い。しかし、先ほどとは違う。

その音には明確な温度があった。

 

 ほとんど放心状態だったが、ホームルームの開始を告げる教師のがなり声にようやく身体を動かす。

 席に着いて、胸のあたりに拳を置く。手のひらには薄く汗が滲んでいた。

 

 夏を傷つけてしまってから、その後の夏の情け深さに触れてから、僕は夏を穢してはいけないと、それだけに注意を払って生きてきた。愚かな自分を罰するために、夏と自分は別世界の人間だと言い聞かせて。

 しかし、どうしたものか。僕は根っからの愚か者だったらしい。

 

 ぐっと、もう一度拳を握る。

 夏からあの瞳を、あの懇願するような瞳を向けられて、浅ましくも僕は嬉しかったのだ。

 

 教師の声を聞き流し、僕は一心に机の上だけを凝視する。この後に訪れる放課後を待ちわびている。僕を誘うように換気中の窓から風がそよいだ。目を閉じる。思い出す。

 

 僕はグラウンドに立つ夏が好きだった。中学の頃、放課後、何を言っているのか分からない洋楽を聴きながら、僕は教室の窓からよくグラウンドを眺めていた。

 

 光る太陽。燦々とその恩恵を受けながら、黒いヘルメットの下で汗を光らせる。小麦色の肌。鋭い目。バットを振る、綺麗なフォーム。イヤホン越しに飛び込んでくる、金属バッドの心地よい音。青い空、飛んでいく白いボール。

 

 綺麗だった。一枚の絵画を見ているようで。窓枠は額縁のように思えた。色使いも、モチーフも、全てが完璧で、冷房の効いたこの教室とは完全に別世界の絵画。ただただ、僕はその絵が狂おしいほどに好きだった。

 

 目を開ける。チャイムが鳴り、生徒たちは教室を出て行く。

 

今。グラウンドに夏はいない。夏は絵から出てきた。

それがどうしようもなく、僕は悲しい。

 

(……夏)

 

夏。夏。僕の温度。

 

 皆がこの建物を出て行く中、僕は教室に居た。次第に教室には怠惰な生徒たちだけが残り、やがてその面々も出て行く。そして僕らは二人きりになった。

 

「愁」

 

 タイミングを見計らったようにして、窓際の気配が動いた。また、鼓動が音を立てる。自分の白い頬が分かり易く紅潮していることが簡単に予想できた。それでも僕からは顔を上げられない。机の木目がうごめいて見える程、僕は緊張していた。

 

 かたん、と隣の机が音を立てる。多分、夏は机に腰掛けている。見ることは赦されないから、夏の顔を想像した。

 ふ、と小さな吐息が聴こえる。笑った気配。夏が僅かに息を吸った。

 

「……愁が俺のことどう思ってるか分からないけど、良かったら聴いてほしい」

 

 酷く優しい声色で、夏はそう言った。指先が信じられない程冷たかった。

 僕は色も、温度も何も持っていない。だから僕は夏に何もしてやれない。それでも間違いなく、客観的な事実として、多分、夏は僕を頼っていた。唾を飲み込む。

 

 風が視界の白い髪を揺らす。カーテンレールが軋んだ音を立てた。心臓が不規則に暴れる。

 そんな僕とは裏腹に、風に乗って、夏は唄うように声を落とす。

 

「……俺さ、怪我出来ないんだ」

 

 風が止む。一瞬の静寂。僕は自分の意思で顔を上げた。

 

「……え?」

 

 夏は凛々しい眉を下げて笑っていた。黒い瞳には少し水分が滲んでいるように見える。きらきらと輝く太陽の光を背に受けて、夏は顔を翳らせた。

 

「なんか、そういう病気なんだって」

 

 僕は黙って夏を見る。ただ黙って夏を見つめる。

 

「傷口。出来たらもう治らない」

 

 夏は続けた。そのまま笑ってうつむく。まるで僕のように。

 

「一生塞がらない。から、かさぶたとかも出来なくて、血が止まらなくなるんだって。奇病? みたいな。……死ぬんだ」

 

 しっかりとした睫毛。目を伏せたまま、夏は長く骨ばった指で机のささくれを、愛おしそうに、ゆっくりと撫でる。

 

「徹底してるんだよ。母さん心配性だからさ。……小さな傷でもダメだって、全部」

 

 砂時計の砂が落ちていくように、夏の言葉は僕の胸に積み重なっていく。薬を飲み込むように、混乱を抜けて段々と理解が追い付いていく。

 

「野球も禁止されて、紙も触らせてもらえなくて、ロックとも暮らせなくなって。……学校も行くなって言われたんだけどな。……それは、嫌だった」

 

(ああ)

 

 驚かなかった。それよりもすとんと、腑に落ちたような感覚。

 すべてを理解した。僕のすべきこと、夏のために、僕がすべきこと。

 

「愁」

 

 夏が僕の名前を呼んだ。

 夏。僕の温度。僕の太陽。

 

 夏は嗤う。それはそれは哀し気に、救いを求めるような無防備な顔を、他でもない僕だけに見せる。

 

「俺はさ、どうすることもできないんだよ」

 

 雑音がなくなり、冷房が止まったことに気が付く。静かだった。必要なものしかない空間の中、僕と夏が息をしていた。

 僕は口を開く。何年ぶりだろう。

 

「……だから」

 

 心から、手放しでこんなにも喜ぶことが出来るのは。

 

「だから夏、そんなに苦しそうなんだ」

 

 椅子を引いて立ち上がる。嬉しかった。

 

 ずっと、夏が死んでいくように見えていたんだ。

 皆が怖いと恐れる無口な夏は口をふさがれている風にしか見えなくて、タブレットの教科書は目隠しをされているようにしか見えなかった。夏が苦しんでいることは知っていた。

 それがまさかこんな理由だとは思わなかったけど。

 

 つまりは、夏が生きていられるよう、夏以外の人は夏をコンクリートの中に閉じ込めたのだ。

 

 夏を正面から見つめる。夏はすがるように僕を見た。僕にはそう見えた。

 

 やっと分かった。やっと、分かった。

 

 僕は夏に温度をあげられない。僕は何も持っていない。けれど、閉じ込められた夏を解放することなら、少しは出来た。その方法が、漸く分かった。

 

「ねえ、夏」

 

 いいものを思い出し、机の端、青いペンケースをちらと確認する。開け放されたチャックの中からは、お目当てのものが少し顔を出していた。

 

 皮肉な話だった。死なないよう、無理やり命を繋ぎとめているはずの夏は、ゆっくりと箱庭の中で殺されていくようで。

 

「僕が今、こうしてここに立っているのはなんでだと思う?」

 

 太陽を傷つけるなんて、神でも赦されない冒涜だ。それでも太陽は言った。分かるまで教えてくれ。分かるまで、教えてくれと。

あの時、僕は罪を犯したんだ。そして今が、その罪を償う時だ。

 

 やはり夏は、絵画の住人だった。こちら側の人ではない。

 夏は僕の温度だった。夏は僕の太陽だった。

 

「夏が、僕を引き留めているんだよ」

 

 ペンケースの中からカッターを取り出す。夏は目を見開いた。黒の太陽がゆらりと揺らめく。

 

「夏」

 

 太陽の名前を呼ぶ。夏は長い睫毛を瞬かせた。

 

「──いい?」

 

 僕は少し首を傾げた。

 これが僕の唯一、あげられるもの。夏を輝かせる方法。夏を生かす方法。僕だけが出来る、夏の救済。

 

 どちらのものか分からない、吐息が漏れる。僕も夏も、多分安心していた。

 夏がそっと右腕をこちらに差し出してくる。青い血管が浮き出ている。命を知らせていた。黒い瞳が優しく溶ける。夏は笑った。

 

「──ありがとう」

 

 夏の赦しを得て、僕も目を閉じる。贖罪は成された。

 

 規律正しい箱庭の中、僕は夏の白い白い腕に刃を這わせる。ぷつりと膜が破れたような感触。たった二センチの赤、滲む命の温度に、夏は顔をほころばせた。

 

 涼しい風が教室を通り過ぎていく。

夏。僕らは生きていた。