澄み切った、冷たい夜空の下、海に囲まれた小さな島国に、ぽつぽつと明かりの灯る集落がひとつ。
その中でも一際あたたかい明かりを放つ家に、ある青年が住んでいました。
青年には、奥さんと子どもがいました。
子どもはまだ幼く、最近やっと言葉を覚えたばかりでした。
「今日はね、この子初めて自分で物を食べたのよ。」
おもちゃで遊んでいる子どもを見つめ、にっこりと奥さんが笑いました。
「それはすごい。こうやって、どんどん大きくなるんだろうなぁ。」
青年も、コーヒーを飲みながら嬉しそうに笑いました。
三人の夜は、いつもこうして柔らかく更けていきます。
朝になると、青年は街へ働きに出かけます。
本当はいつまでも三人一緒にいたいのですが、生きていくためにはどうしてもお金が必要です。
それに、青年はまだ若かったので、意欲にも満ちていました。
信号を待っていると、隣のサラリーマン二人が、何やらヒソヒソと話をしています。
「あいつ、やっぱり行方不明になったらしいぞ。」
「まさか、枯れ林に行ったんじゃないだろうな。」
「もしそうなら、きっともう駄目だな。」
青年は、ため息をつきました。
『この島の人たちの中には、木となって最期を迎える人がいる』という言い伝えがあります。
何でも、何かに絶望したり、自分を責め続けて前に進むことを拒絶した人が、木となってしまうらしいのです。
そして枯れ林は、そうなってしまった人たちが最後に集う場所だと言われています。
ただの御伽話だろうと、青年は密かに思っています。
それでも、この島には木が存在しないということも、また事実でした。
信号が青に変わります。
そういえば明日は会議だったっけ。
青年はすでに、そんなことを考えていました。
仕事が終わり、青年はうきうきと帰路につきました。
その日、青年は上司に海外での大きな仕事を頼まれました。
自分の功績が認められたのです。
青年にとって、この上なく嬉しいことでした。
二週間の海外出張を二つ返事で承諾し、青年は家に帰ってすぐ、奥さんにこの事を伝えました。
「そうなの。……良かったわね。」
しかし、帰ってきた言葉はたったそれだけでした。
「何か……不味いことでも、あった?」
その反応に少しがっかりしつつ、青年は尋ねました。
すると、奥さんは躊躇いがちに言います。
「うん……そうね。貴方が仕事で、活躍できていることはすごく嬉しいの。……だけど、二週間も会えないのが、少し不安で……。」
奥さんは、ちらりと眠っている我が子を見ました。
「大丈夫だよ。貴方は立派だ。それに、困ったことがあれば、島の人がきっと助けてくれるよ。」
奥さんが仕事に反対している訳ではなかったと分かり、青年は朗らかに笑いました。
「……そうね。そうよね。ありがとう。」
奥さんも、それに応えるように、ひっそりと笑いました。
ひと月後、青年は海外に出かけました。
色々な場所を巡ることで、自分の世界が広がっていくように感じます。
見たこともない果実や、綺麗な髪飾りなど、たくさんのお土産も買いました。
そして、青年が訪れた国々には、町にも、公園にも、美しい木々が所狭しと植えられていました。
その幹は太く、つやつやとした茶色い枝は、まるで天を掴むかのように、大きくその身を広げ、そこから生える青々とした葉は、太陽の光を受け、きらきらと輝いています。
「なぜ、僕の国にはこんなにも素晴らしい植物が無いのだろう。」
生命力の溢れる木々の美しさに胸を打たれた青年は、苗を一つ、買って帰りました。
仕事を終え、島へと帰った青年は勢いよく扉を開けます。
「ただいま!」
その瞬間、青年は部屋を包む異様な空気を感じました。
あまりにも静か過ぎるのです。
青年は恐る恐る、リビングに入ります。
目に入ったのは、座ったまま呆けている奥さんと、一本の、木。
「あれ…どうしたの……?それは…?」
困惑しながら、青年は先程自分が木と認識したそれを、もう一度まじまじと見つめました。
その木は、青年が見た木とは少し違っているようでした。
幹は、あの艶のある茶色ではなく、どこか光を放つような白い色をしており、枝は細く、一本は折れてしまっています。葉は緑というより、どちらかというと青に近い色をしていました。
そして何より、その高さ。
青年が見た、あの見上げるような大きさではなく、膝くらい。
そう、丁度、子どもの背丈くらいの。
はっとして、青年は奥さんを見ました。
夕陽を受け、淡く染まった彼女の瞳から、ゆっくりと涙が溢れます。
「ごめんなさい。そうなの、あの子なの。ごめんなさい。ごめんなさい。」
彼女はただひたすらに、謝り続けました。
青年はというと、茫然とするしかありませんでした。
あの子が木となった理由も、彼女の涙を止める方法も、青年には何一つ分からなかったのです。
ぐちゃぐちゃと混乱する頭を抱え、青年は彼女の背中をただ、さすり続けました。
それから数日の間、いくら青年が話しかけても、彼女は一言も口を開きませんでした。
食べ物さえも口にしません。
買って帰ったお土産たちも、とうとう腐ってしまいました。
青年は考えました。
何故我が子が、こんな姿になってしまったのか。
自分がいない間に、一体何があったのか。
しかし、考えても考えても、分かるはずもありません。
数日間休んでいる会社への後ろめたさも加わり、青年には疲労感と訝りだけがつのりました。
そんなある日、とうとう彼女が言いました。
「枯れ林に、連れて行って。」
二人は、淡々と歩きました。
日が傾き、辺りが暗くなっても、ずっと。
青年も彼女も、それぞれがどうしようもなく、疲れ切っていました。
場所も知らない、存在すら怪しかったはずの枯れ林。
それでも二人は、少しも迷うことなく、そこに辿り着くことが出来ました。
まるで何かの、魔法のように。
そこには、数え切れないほど沢山の木々が立ち並んでいました。
皆白く、仄かに光を放っていて、暗闇のはずなのに、その全貌がはっきりと分かるほどでした。
葉の一枚一枚でさえ、まるでナイフのように鋭く、それでいてどこか柔らかい光を纏っています。
美しい。
確かに青年は、そう思いました。
半分馬鹿にしていた言い伝えを、今でははっきりと真実だと言い切ることが出来ました。
そして、自分にその時が近づいていることも、何となく理解できました。
「泣き声とか、甲高い声が、苦手だった。」
林の中を半分ほど進んだ時、彼女が言いました。
「私がどれだけあやしても、あの子は泣くの。お母さんって。貴方が帰って来なくて、私は」
彼女は歩みを止めます。
「ご飯を、作らなかった。怒鳴った。耳を塞いで、閉じこもった。」
「気がついたら、静かで。あの子は居なくて。」
さわさわと音が聞こえます。
「愛して、いたのに。」
見ると、彼女の足にはいくつもの筋があり、足先は既に、木の根として、白く光を纏っていました。
「僕は……貴方を、責めない。」
青年は、涙に任せて、そう言いました。それしか、言えませんでした。
青年は彼女を深く、愛していました。
しかし、それと同じように、あの子のことも深く、深く、愛していたのです。
「言い伝えさえ知らないあの子は、それでも木になった。私は、私は、たった二週間で、あの子にどれほどの絶望を、与えてしまったのだろう。」
青年の胸は、じんわりと痛みます。
にっこりと笑った彼女の頬には、いく本もの筋が伸び、白く、白く、ざらついていきます。
気がつくと、もう綺麗な瞳も、小さな鼻も、ふっくらとした唇も、もう分からなくなっていました。
そこにあるのは、ただの大きな一本の木、それだけでした。
青年は泣きました。
何も止められなかった自分への怒りと、愛する全てを失った、その哀しみに。
冷たい夜の空気が、肺に雪崩れ込みます。
それでも青年は、かつて彼女だったその木に縋り、大きな声で、泣き続けました。
あぁ、と青年は思います。
もう何も持っていないのに、僕は何処へ行けばいいのだろう。
何を目的に生きたらいいのだろう。
どうして、生きなければならないのだろう。
ふと気がつくと、青年の足は既に木の姿となり、しっかりと地面を掴んでしました。
痛みは全く感じませんでした。
ただ身体が木となる感覚だけが、ゆっくりと青年を包んでいきます。
青年は思い出したように、持っていた枝を一本、精一杯腰を曲げて、地面にさしました。
それは、青年がこっそり持ってきた、あの子の一部でした。
あの子はここに居て、部屋には買ってきた苗だってある。
きっとこれで、あの子も寂しくないだろう。
青年はそう思い、目を閉じました。
最後の涙が一滴、筋の出来た頬を伝います。
もう手も足も、動きません。
それは心地の良い不安でした。
あぁ、なんて優しい、魔法だろう。
青年は最期、そんな事を思いました。
さわさわと揺れる木々だけが、青年をじっと見つめていました。
どこかの小さな島国の、そのまた小さな村にある、大きな大きな枯れ林。
そこは今日も、柔らかく、優しい光で包まれています。